書評・感想『あのころはフリードリヒがいた』 書評・感想『あのころはフリードリヒがいた』(リヒター)
《書評》は、ネタバレ無しの、購入の目安としてのコメント。
《感想》は、ネタバレ有りの、読了後の参考としてのコメント。

《書評》
 典型的な「現代の悲劇」
 ボランティア精神溢れる方、利他主義者、テレビのドキュメンタリー番組をまじめに見るような方……。
 以上のような方々には、良い読み物になるかもしれませんね。
 他には、第二次世界大戦時のドイツにおけるユダヤ人迫害の問題に興味がある場合などは、参考になるでしょう。私も実際、大学の講義で教科書として買わされたので本書を読むことになりました。
 高校の世界史程度では教わらなかったことまで、ユダヤ人少年の視点で描かれているため、それなりに参考になります。
 ですが、「悲劇」と現代人が呼ぶその典型例、また、世界大戦時のユダヤ人問題に興味の無い人にとっては、あまり得るところもないでしょう。
 が、逆に言えば、それらに興味のある人は、一読の価値はある作品でしょう。


《感想》(↓反転してお読みください)
 まず、この作品は一般的観点からすると、《悲劇》というジャンルに属する内容を持つ作品になるということを前提にして、話を進めていきたいと思う。
 では《悲劇》とは一体何か。それを聞いてすぐに、ギリシア悲劇ないしシェイクスピアといったものを連想するのは、そう稀有なことではないと思う。特にシェイクスピアの作品の中でも、四大悲劇と呼ばれる作品群は喚起されやすいだろう。
 ところで、わざわざここでシェイクスピアを引用したのには、その四大悲劇の中の一つ『マクベス』の冒頭部分に、次のような言葉があることに起因している。

  きれいは穢(きた)ない、穢(きた)ないはきれい。(福田恆存訳、新潮文庫)

 この翻訳の上手いと思われるところは、「穢ない」という部分にある。これが「汚い」となっていたなら、この文章は矛盾したものとなり、解釈がまた一段と難しくなってしまうだろう。ところがこれが「穢ない」であるのならば、この文章は一見矛盾しているように思われてしまいがちだが、実際はなんら矛盾することのない平凡な言葉として受け入れることが可能になるのである。
 つまりこの言葉の意味とは、見た目が「きれい」なものであっても、実質は「穢ない」ものである場合や、逆に見た目が「穢ない」ものであっても、実質は「きれい」なものがある、ということではないかと思う。そしてこの場合の「穢ない」とは、「汚い」とは違って、単純な見た目に表れる「きたなさ」ではなく、その本質的内面的な「きたなさ」を表していると言って良いのではないだろうか。
 これはつまり、我々がよく陥りがちな過ち――或る事象を一見しただけで、それに類似した過去の判断と照らし合わせて、今見ているこれもまたそうだ、という決め付けによる本質の見逃し――に対する指摘だと解釈することができるということである。
 私はこれが、本作にも当てはまるものと思う。また、そう考えることによって見えてくる《悲劇》の本質があるのではないかとも考える。
 では、本作における本質の見逃しとは何か。それは、本作は《悲劇》でありながらにして、その実《悲劇》ではない、ということにあると思う。
 本作は《悲劇》としてではなく、《喜劇》として読まれるべき作品なのである。
 いや、正確に言うなれば、全ての《悲劇》が《喜劇》として読まれるべきなのである。
 それはどういうことかというと、つまるところ《悲劇》と呼ばれる作品は、大雑把に言って、『人生における取り返しのつかぬ失敗談』だと要約できると思う。更に条件をつけるなら、その失敗のあり様が、どうにも鑑賞者の悲しみや同情を誘う代物である場合に限定されるのではないだろうか。
 だが、そうして《悲劇》を単純に《悲劇》として鑑賞し、ただ単純に悲しんだり、可哀想だなどと嘆いてやったりするだけでは、あまりにもナンセンスではないか。そういった「共感」レベルの感動では――自分よりも下でも上でもない同レベルのものを感じるだけでは――その《悲劇》を鑑賞した意味が無い。
 そうではなく、《悲劇》とは《喜劇》として、その劇中で描かれる「失敗」を笑い飛ばせる、頑強なる理論を生み出す機会として鑑賞すべきなのではないかと考える。
 本作『あのころはフリードリヒがいた』は、その題名から想像できる通り、フリードリヒというユダヤ人の少年の生涯とその死を描いた小説作品である。それを普通に、単純に読み終わったならば、大体のところ「このような悲劇は二度と繰り返してはならない」といったことや、「人種が違うだけでここまで酷い差別をする必要は無いじゃないか」といったことを感じ、それを教訓とするという読み方をされるのではないかと思う。
 だが、その程度のことは、わざわざ本作で知る必要の無い事ではないかと思う。確かに以上のような教訓は、理解しておく必要のある知識ではある。
 しかしながらこういった基本的な、知識と言うよりも倫理と言うべき概念は、他のあらゆる作品の中に数多く描かれており、最早手垢だらけで教訓としての価値を無くした教訓と言って良いのではないかと思う。だが、今一度言っておくと、こういった基本的倫理的概念は、人間にとって必要な知識であろうから、それを描いた作品を量産することは決して悪いことではないと思う。
 しかし、今回本作を読んだ私にしてみれば、この知識は既に習得済みと思われるものであった。
 だがそれと言うのも、本作を単純に《悲劇》として読み終われば、の話であり、これを《喜劇》として読むことによって、私は《悲劇》というものの新たな側面に気づけたと思うことができた。
 それというのがつまり、本作を例にとって説明するならば、「本作に描かれている《悲劇》とは、宗教だとかいったくだらないものに固執するあまり、もしくは故郷に固執するあまり、また『外国へ行けば家族を養えなくなるかもしれない』などという無駄な不安、などといった、観念的桎梏に惑わされ、『逃げる』ことをしなかった愚かなるユダヤ人の一家を、思想的に弱い人間だったと嘲り笑い飛ばす、という喜劇的解釈を用いて、新たなる『教訓』として読むべき《悲劇》なのである」ということになる。
「きれいは穢ない、穢ないはきれい」
《悲劇》を一種の悲しいが故に美しい物語だとするならば、その本質は、まったく美しいものではなく、読者の思索によって、穢なく下等な、笑い飛ばしてやるべき絶対的駄作の宿命を持った一種の《喜劇》として捉えるべきなのである。
 私は今回の読書を通して、以上のような《悲劇》の本質と言って良さそうな新たな側面を見出し、本作における《悲劇》の喜劇的解釈を楽しむことができた。
 そして、何事も表面的に捉えるだけではなく、その裏面にも目を向けるべきだということを、新たなる知識として手に入れることができたと思う。

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