書評・感想『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』(佐藤友哉)
《書評》は、ネタバレ無しの、購入の目安としてのコメント。
《感想》は、ネタバレ有りの、読了後の参考としてのコメント。

《書評》
無茶苦茶です。
エンターテインメントです。
おかしな登場人物たちによる、おかしな殺人劇です。
あ、「笑える」という意味での「おかしな」ではありません。
「狂っている」という意味での「おかしな」です。
でも割と普通です。狂っているなりに普通です。
中には本当に「普通」の登場人物も出てきます。
ただこの作品、登場人物が「おかしい」だけではありません。
世界観も「おかしい」です。
どう「おかしい」のかはよく分かりません。強いて言えば、「よく分からないおかしさ」です。よく分かりませんね。
あ、オタク的引用が結構あります。オタク趣味な人が読むと、思わずニヤリとしてしまうでしょう。そういう意味では笑えますね。
でもこれ、ただのエンターテインメントではありません。
しっかり読めばとても興味深い無いようです。
すべての「おかしさ」は、アレゴリー(寓意表現)なのではないかと思えてきます。
オタク精神を表したアレゴリー。

さあ、構造への再統合の時です(意味不明)


《感想》(↓反転してお読みください)
 私はこの作品ほど、現実を感じさせてくれる小説を他に知らない。
 それはただ単に、私の読書経験の浅さ故なのかもしれないが、しかしそれは、この小説の内容が現実の描写で満ち溢れているという事実を覆すものではない。
 佐藤友哉の著書は、一般に「壊れている」という評価を受けているようだが、私はまだ今作しか読んでいないため、少なくとも今作は、という言葉を添えなければならないが、少なくとも今作は「現実」に満ち溢れた小説だと言う事が出来る。
 ではどのような点において「現実」が見えるのかというと、大きく言って、キャラクターの人格、世界観の二点においてと言えるであろう。
 一般の人は、主に「キャラクターの人格」を指して「壊れている」と思われるのかもしれないが、私は逆に、そこを見ることによって「現実」を感じたのである。
 今作の登場人物達は、殆どが極めて論理的な思考力を有する「論理の化身」とも言うべき人格者達である。その中で唯一「俗人」の特性がその人格の大半を占めているキャラクターがいる。それは明日美である。彼女は「接続」という超能力さえ有していなければ、恐らくただの俗人に成り下がり、この物語には登場の余地が無かったであろう。
 だが、彼女は登場させる必要があった。「俗人」というものを表すために。俗人の象徴として彼女は登場させられたのだ。その名前が「明日」は「美しい」という言葉を連想させるところ――更に苗字を公開せずにその事を強調しているかのようなところ――からして、正に俗人と言って良いキャラクターであろう。そして彼女はやはり、俗人らしい最期を遂げる。目的を達せられず、立ち尽くすという最後を。
 では彼女以外の登場人物が、如何に論理的なのかというと、彼らには殆ど感情というものが無い。それでいて思考法が論理に則っている。であるから、彼らは極めて論理的なのだ。
 人間とは動物と違い、「本能」の他に「自我」をも持ちあせているが故に人間であるのだが、その「自我」は論理で動き、「本能」は感情で動く。故に「自我」は「本能」を不要なものだと感じる。そうして「本能」を排除して出来たのが、鏡家の一族であろう。彼らが「壊れている」というのは、その点においてなのであろうが、しかし彼らは完全に本能を排除しているわけではないのだ。鏡創士も作中で言っているが、彼らは感情を理解していないわけではない。鏡公彦を見ると、彼は殆ど感情的に行動していると言えないことも無い。彼らは「本能」と「自我」をちゃんと持ち合わせつつ、極めて自我的に、論理的な思考のできる凡人なのである。
 その中でも特に目立って自我的なのが、鏡稜子その人である。彼女は全然感情というものを感じさせない言動しかとっていない。むしろ論理ばかり感じさせられる、最も論理に忠実なキャラクターなのである。しかしながら、アニメ・漫画関連のネタを振ると飛び跳ねて喜んだり、驚いたり、と感情はやはりある。感情が完全に無い人間は、この作中には一人も登場しない。
 それでは次に、世界観が如何に現実を映しているのか、ということを説明したい。
 キャラクターに論理を見るのは百歩譲って首肯できても、世界観に現実を感じるというのは首肯できない、という方が多いのではないかと思うのだが、いやいや、これが小説であるということを忘れてはいけない。これは小説ならではのやり方(SF)で、現実を描写しているのである。
 この作品には明日美の「接続」や、鏡公彦の「二重人格的別人格製造(と、仮に命名させていただく)」、はたまた「件(くだん)」に「アンドロイド」まで登場する始末。これでどう論理的なのかと思われるかもしれない。しかし、これらのSF要素は、全て「思考上」のことであって、どれも物理的にSFなのではない。唯一説明が面倒なのが鏡佐奈のアンドロイドであるが、それでも同じ場所に二人(二体)以上出て来たことはないのだし、鏡佐奈の葬式で棺桶に眠る彼女自身の顔が描写されているわけでもない。本物の佐奈は、実は鏡公彦に殺されきれず、葬式だけを挙げた。それは、なんらかの理由で出現した別の死体を葬式を利用して焼いて始末するのに使えたから、という理由なのではないか。だから最後に、鏡公彦がくびり殺したと思った鏡佐奈をレイプ(?)したために、この作品最後の台詞から分かる、鏡佐奈の兄の子供の妊娠ということも頷けるのでは無いだろうか。ただ、葬式で焼いたのは誰だ、という問題が残ってしまうが、それ(世界)を一作品内で描写しきるというのは不可能である、という、これまた現実を見せられることになるのである。
 それ以外――鏡佐奈のアンドロイド以外のSF要素は、殆ど完全に妄想的なものである。それは現実世界における、現実世界からの逃避は妄想によってしか不可能であること――オタクなどと呼ばれる存在など――を連想させ、これもまた、現実を小説的に描写したものだと受け取る事が出来るのである。
 以上のようにこの作品は、極めて現実を的確に、且つ論理的に映した一小説作品なのである。
 この作品は、下手な純文学作品なんかより、よっぽど現実を感じさせる、それでいて極めて論理的な登場人物ばかりで構成された、現実世界よりも高次な世界が描かれていると言えるだろう。
 しかし……現実を感じさせてくれる小説作品という点で、この作品は私的にそれなりの高評価を与えたいとは思うのだが、やっぱりレイプはいけない。こういう類のものをストーリーに添えられるのは読者としてどうも気に食わない。凄まじくストレスが溜まるのだ。読者を怒らせ感情移入させるためには、この手法は有効なのかもしれないが、私はこういう類のものを取り入れずに作品を作ってもらいたいと切に願う。その点においてのみ、この作品には減点を付けなければならないだろう。


 最後に、作中で登場したオタク的用語(?)を、私の分かる範囲で、箇条書きで解説させていただこうと思う。
作中登場用語 私的簡略解説
さくら漫画・アニメ・映画・ゲームなど、多数のメディアでかなりの有名な『カードキャプターさくら』という、魔法少女系作品内の主人公「木之本桜」のこと(小学四年生)。
さくら本上記作品を扱った同人誌のこと。
ケロちゃん上記作品内に登場する主人公の家に現れたカードの守り神的存在「ケルベロス」の愛称。主人公のさくらが命名した。作中後半に至るまでは、小さなぬいぐるみのような格好だが、後半カードを全て集め終えた時、自称「カッコイイ」ケルベロスの名に相応しい姿になる。
桃矢
(とうや)
上記作品内に登場する主人公の兄。作中で親友に指摘されて否定しているが、明らかなるシスコン。
李君
(りくん)
上記作品内の登場人物で、フルネームは「李小狼(りしゃおらん)」、台湾人で、主人公と同級生の男の子。元はカード集めのライバルだったが、流れで協力して集める事になる。<李君>の呼び名は、従妹の「李苺鈴(りめいりん)」を除く(彼女は<小狼>と呼ぶ)クラスメイト達からの呼び名。だが実際の発音的には「りぃくん」となる。
「封印解除(レ・リーズ)」上記作品内、主人公が魔法の杖的存在「封印の杖」を、首からぶら下げているドラクエの鍵(?)のような形態から、長い杖の形にするときに叫ぶ言葉。
マルチ90年代後半、かなりのブームを巻き起こしたアダルトPCゲーム「To Heart」のヒロインであるメイドロボのこと。耳は、よくRPGや『ロード・オブ・ザ・リング』のようなファンタジー映画などで見かける、エルフのとんがり耳を機械っぽく(というか機械)したセンサーになっている。ちなみに主人公と同じ学校に通っているので、制服(赤のセーラー)姿が印象的。
セリオ上記作品に登場するメイドロボ。こちらも耳はセンサーで、同じく制服姿のイメージ強し。
ちぃ漫画『ちょびっツ』のヒロイン。人間ではなくパソコン。その世界ではパソコンが人型化しており、主人公の本須和秀樹がゴミ捨て場に置いてあった彼女(?)を拾ってきたが、始め彼女(?)は「ちぃ」としか喋れなかったため、主人公によって『ちぃ』と名付けられる。アニメ化もされた。
補足
『カードキャプターさくら』と『ちょびっツ』は「CLAMP」という集団の作品。他に『魔法騎士レイアース』などが有名。

追記(2005/5/9)(↓反転してお読みください)
 この小説の、世界観について、書き添えなければならない事を発見したので追記とする。
 それは、もう少し細かく言えば「鏡家について」である。
 この「鏡家」を文字的に解釈してみると解る事がある。と言って、さして新鮮なものでもないのだが、つまりは鏡家の人間の人格は、この現実世界の人間とは殆ど逆である、ということである。
 この現実世界の人間――俗人は、その内に秘める人格の割合を考えると、「俗」が九割、「非俗」が一割といったところである。ところが、鏡家の人間はその逆で、「俗」が一割、「非俗」が九割といった感じの人格になっているのである。つまり、俗人を「鏡」で映した姿、それが「鏡家」の人間なのではないか、ということである。そうして、この小説は現実を裏返しにして描写しているのではないかということが解ってくる。それ故に、ところどころで見受けられるSF要素は、それが現実とは反対、つまり現実ではありえない――フィクションだという点で、存在意義が証明されるのである。
 これと同じようにもう少し詳しく、個人的なレベルで「鏡家」を分析してみると、また更に解ってくる事がある。
 「鏡公彦」、彼の名前を分析してみよう。名前の、「公(おおやけ)」という部分は、なんとなく一般人のことを指しているように思われる。それに「彦」という男性の尊称が付け足されて作られたのが、「鏡公彦」というわけではないだろうか。つまり、彼は「鏡家」の中でも、特に一般人――俗人に近い人格の所有者ということなのではないだろうか。そう考えてこの小説を読んでみると、なるほどと思われてくる。彼は自分だけは(自分と佐奈だけは)「鏡家」の中でまともな人間だと言う事を自負している。その自負、言い換えるなら、その自己過信が俗的なのである。そしてその自己過信、自信過剰にひた走った結果があれだ。無様な死に様、それは死にこそしなかったものの、無様な最後を迎える明日美に似ていはしないか。「接続」という能力以外が俗人の典型である明日美と。
 このような分析は、もしかすると他の登場人物にも出来るのかもしれない(明日美については既に検証済みである)が、どうも今の私にはこれが限界のようだ。
 また何か解ったら追記するとして、今回はこの辺で筆を置かせていただく。

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