書評・感想『人間失格』(太宰治)
《書評》は、ネタバレ無しの、購入の目安としてのコメント。
《感想》は、ネタバレ有りの、読了後の参考としてのコメント。

《書評》
 この小説の主人公は、果たして太宰治自身を映したものなのか? そのような疑問はとりあえず措いておくとして。
 この物語は、主人公である大庭葉蔵の人生を綴ったものと言って良いと思うが、その観点は、自分(大庭葉蔵)は「人間失格」である、というそういった観点に立って描かれている。
 つまり、自己卑下の連続だ。これでは読んでいて暗くもなるだろう。そういった話が好きでは無い方には、本書はオススメしないほうが良いかもしれない。
 ただ、「人間失格」とはどのようなことか、逆に、「人間合格」とはどういうことか、また、本当に大庭葉蔵は「人間失格」なのか、といったことを考えてみたい人には、一読と言わず、再読、再三読の価値もあるかもしれない。


《感想》(↓反転してお読みください)
 私が最初に読んだときの感想は、大庭葉蔵は「人間失格」ではない、というものだった。
 かと言って、100点満点の「人間合格」というわけでもないが、及第点ではあるだろう、とそう思っていた。
 何故なら大庭葉蔵は、小説本編で最終的に判明しているだけでも、27歳までは生き延びている。ここまで生きられたのなら、何某かの稼ぐ手段と、人間社会において生き延びていく手段をそれなりの形で完成させて持っているはずだ、と考えたからだ。
 私が思う「人間合格」の基準とはつまり、人間社会に適合して生き延びていくことができるかどうか、という点にある。その点、大庭葉蔵は合格であるように思えた。
 しかし、今またパラパラとではあるが読み返してみて、どうもそうではないのかもしれない、という思いが浮上してきた。
 27歳まで生き延びる手段を持っていた、と言うよりも、27歳までは惰性でなんとか生き延びてしまった、と言うほうが正しいのではないか、という思いが浮上してきたのだ。
 そう考えると、27歳というのは妥当な数字のような気がしてくるし、逆に手記の最後ですぐに死んでしまうようでは、あっさりしすぎていて駄目なような気もしてくる。
 そんな、さも自殺したかのような綺麗なオチは、「人間失格」の烙印には相応しくないだろう。自殺や、綺麗過ぎる死(小説という作り物における、作者の意図によった登場人物のメタレベルでの自殺)による自らの始末というのは、人間社会に適合できない自分を、人間社会の邪魔にならないために自ら処分するという行為であり、それは人間社会に適合できなかったものがする、虚しい、最後にして唯一の適合なのであり、それによってその人間は「人間合格」の及第点を獲得することができる。
 しかし、大庭葉蔵はそうではない。彼は少しばかりを生き延びた。生き延びてしまった。故に彼は「人間失格」なのだ。
 今の私は大庭葉蔵をそう評価するが、「人間失格」の基準に対する価値観をどこに置くかによって、この評価は如何様にも変化するだろう。
 この作品は、読者それぞれにとっての「人間失格」、「人間合格」とは何かを探究する道標としての役割を持っているのかもしれない。

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