書評・感想『潮騒』(三島由紀夫)
《書評》は、ネタバレ無しの、購入の目安としてのコメント。
《感想》は、ネタバレ有りの、読了後の参考としてのコメント。

《書評》
 この作品については、三島由紀夫にしてはあまりに率直な青春恋愛小説であり、とても読みやすい、という評判をよく聞く。
 たしかに、長編『仮面の告白』や短編「花ざかりの森」などと比べると、小難しい、観念的な描写は一切無く、きわめてスラスラと読み進めることが出来る。そういう意味では、三島由紀夫入門の一冊としてオススメして良いかもしれない。
 しかし、本作のみを読んで、単に「青春恋愛小説」としての解釈しか持たずに読み終わってしまって良いものかという意見を私は呈したい。ただ、そのことについて書くにはネタバレを伴うため、ここでは書かず、下の《感想》にて書きたいと思う。
 ここでは、本作がただの「青春恋愛小説」ではないかもしれない、という可能性を提示しておくに留める。


《感想》(↓反転してお読みください)
 この作品のタイトルは何か? 『潮騒』である。
 本作はそのことを踏まえて読む必要があるのではないかということをまず最初に提示しておく。
 しかし、この作品の大部分は、読みやすい、単純な、娯楽的な「青春恋愛小説」として読める。普通はそういう読み方で終わってしまうのであろう。それはあまりにも「青春恋愛小説」の部分が大きすぎ、『潮騒』的な部分が隠されてしまっているからなのだろう。
 だが、本作を単純な「青春恋愛小説」として読み終えるには、ところどころ引っ掛かりを覚える箇所が散見され、結末の最後の一段落に至っては、この引っ掛かりは間違いではなかったとの確信を得ることになる。
 その引っ掛かりというのは、主人公の久保新治が、初代に対する恋慕に煩悶する傍ら、『潮騒』、すなわち海に惹かれている様子が時折描写されていることを指す。
 その描写の細かい指摘は、探すのが面倒なのでしないが、最後の一段落については引用し、言及しておこう。

 少女の目には矜りがうかんだ。自分の写真が新治を守ったと考えたのである。しかしそのとき若者は眉を聳やかした。彼はあの冒険を切り抜けたのが自分の力であることを知っていた。
(『潮騒』三島由紀夫、新潮文庫――本文より抜粋)

 普通に考えて、この文章で本作が終わっているというだけでもあまりに不自然ではないか。この文章を最後に読んで、尚本作をただの「青春恋愛小説」としてしか読めない人々の理解力が私には理解できない。
 この一段落によって、これまでひそやかに積み上げられてきた「青春恋愛小説」の像が、ここに至って一気に瓦解している様が目に見えるようだ。それを見ることの出来ないフシアナを顔面に二つも穿った俗人とは、はたしていかなる人間ぞや。
 と、罵詈讒謗はこの辺にして、この一段落が何を示しているのか。厳密に言うなら、この一段落で作品が締めくくられていることは何を意味しているのか。
 ここに至って新治は、自らの想いの対象を初代から『潮騒』へと変えてしまっていることを示している。
 もし本作が単純な「青春恋愛小説」であったなら、新治は初代の目に浮かんだ矜りを否定せずに受け入れ、肯定することによって、初代との相互的な恋慕の環を完結させ、「青春恋愛小説」としての完成形を見ることになったはずだ。しかし本作ではそうならずに、新治は初代の矜りを否定してしまっている。
 この否定とは即ち、真っ当な青春、真っ当な恋愛を全否定するものとなる。なぜならば、本作の外観が「青春恋愛小説」として作られていることに由来する。本作のこれほどまでの王道的「青春恋愛小説」像は、最後の最後で全否定するためにこそ構築された、いわばバベルの塔だったのである。
 新治は最終的に、初代との真っ当な恋愛ではなく、『潮騒』を媒介とするデカダンスに堕ち込んでいるのだ。このことは『仮面の告白』など、『潮騒』が発表するまでに書かれた作品群、また『金閣寺』などの『潮騒』以降の作品群を見れば明らかであろう。これら率直なデカダンス作品の間に『潮騒』のように単純な「青春恋愛小説」が書かれたことを不思議がる者が多いようだが、それは間違いだということが、ここまでの文章を読んできた方ならばお解かりいただけるだろう。
 そう、『潮騒』もまた、デカダンスに溢れた作品なのである。『仮面の告白』がきわめてノンフィクションに近い形で作られたデカダンスであるなら、『潮騒』とは、きわめてフィクションに近い形で作られたデカダンスであると言えるだろう。
 そういう意味では、芸術作品としての完成度は、本作は『仮面の告白』を上回る作品と言うべきだろうと私は思う。

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