書評・感想『ヴィヨンの妻』(太宰治)
《書評》は、ネタバレ無しの、購入の目安としてのコメント。
《感想》は、ネタバレ有りの、読了後の参考としてのコメント。

《書評》
 これは短編集だが、中でも表題作の「ヴィヨンの妻」が、特に秀逸である。
 この作品は、デカダンスを考える上で欠かせない作品と言えそうだ。
 太宰治がデカダンス文学の作家としてイメージされることは少ないように思うが、私にとっては、とても共感するところ多いデカダンス文学者である。
 それは『人間失格』や『斜陽』など、有名作品においても勿論そうだ。しかし、少なくともこの二長編においては、頽廃した後の続けざるを得ぬ頽廃的生活の描写には長けているが、それだけでは頽廃――デカダンス――の何たるかは描ききれない。その不足分の一部――頽廃そのもの――を補うのが、「ヴィヨンの妻」という短編作品であると言えるだろう。
「ヴィヨンの妻」は、頽廃者の客観描写に長けた作品だと言えるだろう。
 しかし、「ヴィヨンの妻」をもってしても尚、デカダンスは完璧に描写されたわけではない。
『人間失格』・『斜陽』・「ヴィヨンの妻」をもってして尚足りないもの、それは、頽廃へと至る過程の描写である。
 しかし、これまでを描写するというのは、或る意味野暮なことであろう。
 すでに頽廃を経験した、共感できる者だけが共感すれば良いのがデカダンスであり、できうるならば、デカダンスになど共感しないほうが良いのだ。
 この考えが絶対かどうかは問題ではない。
 ただ、頽廃へと至る過程を描写した作品が、私の知る限り滅多に見つからないということ、これは、デカダンスを一つの悲劇と捉える観念が、多くのデカダンス文学者の共通見解となっているらしい、ということは言えるのではないだろうか。
 ならば「ヴィヨンの妻」はこれで良いのだ。
 下手に完璧を目指した作品を書けば、それは未完成の代物へと堕し、本来小さくまとまるはずだったものが、無駄に大きな容れ物に、ブカブカの状態で放り込まれることになる。これではあまりに不恰好だ。そういう構成の点においても、「ヴィヨンの妻」は秀逸と言えるだろう。


《感想》(↓反転してお読みください)
『ヴィヨンの妻』は短編集であるとは《書評》で既に書いたが、この短編集に収録されている作品は、ほぼ全てが、「ヴィヨンの妻」と同じくデカダンスの客観描写に長けた作品であると言えそうだ。
 ただ、「トカトントン」は例外的な作品として挙げなければならない。この作品もまた、本質的にはデカダンスの客観描写と言えなくも無いのだが、視点は主観である。しかし、「トカトントン」という謎の音にデカダンスを委ねているという点において、この作品も客観性を持ち合わせていると言わねばならない。
 主人公は「トカトントン」をきっかけとして頽廃へと至る。これは頽廃に至る過程の描写なのではないかと思われるかもしれないが、それは違うということは、読んでみれば解るだろう。
 何故「トカトントン」という音をきっかけにそうなるのかは、解明されていないのだ。しかし、厳然として、それをきっかけにして主人公は頽廃へと、着実に堕ちてゆく。
 この点は、デカダンスだけでなく、ニヒリズムも混入していると考えることも出来るかもしれない。
 そう考えてくると、「トカトントン」がこの短編集に収録されている意義は大きいと言えるだろう。
 これら全収録作品を通読することによって、「デカダンス」とは何なのか、興味のある人は考えをめぐらしてみるのも良いかもしれない。

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