現実と幻想における柄谷広告理論適用の是非について 現実と幻想における柄谷広告理論適用の是非について

 まず、柄谷行人という人物をご存知かどうか伺っておく必要があるだろう。
 結構、というか、かなり有名な評論家なので、聞くだけ野暮というものだろうか。
 今回私は、氏の著書『言葉と悲劇』(講談社学術文庫)に収められている、講演を文章化した物である「政治、あるいは批評としての広告」の中で展開されている理論を、《現実》と《幻想》の間において適用してみようと考えている。
 それを為すには、まず、上の講演の中で語られている内容を、今回私が利用させていただく部分だけでも、簡単に紹介しておく必要があるだろう。よって、以下に私なりに解釈したものを示してみる。(ただし、飽く迄これは私の解釈であり、もしかするとそれは、氏の意思に必ずしも沿わない解釈となっているかもしれないことを、ここで断っておく)。

 氏曰く、「広告」というものは、一次的なものでもある、ということらしい。
「一次的」というのはつまり、創造的であるとも言い換えられるだろう。
 それに対し、二次的である、ということはつまり、或る物があって、それに影響を受けるなり、そこから派生するなりして発生した副産物的な物のことを言う。
 一般に、「広告」と言えば商品があって、それを宣伝するために作られる、二次的な代物というイメージが強いと思う。
 しかし、氏はそうではないのだと言う。
 ディコンストラクションという言葉が『言葉と悲劇』所収の他の講演録においても頻繁に使われているが、当該講演においても、その言葉が使われている。
 簡単に、且つ私見を交えて言い換えるなら、「観点位置の逆転」とでも言えるだろうか。
 当該講演内でも取り上げられている例を挙げると、「小説」と「批評」という二つの項目の内、一般には、「小説」が一次的なものであり、それに対する「批評」というものは二次的であるとされている。しかし、よくよく考えてみると、「小説」というものも引用によって成り立っているのである。つまり、小説を作り上げる作家は、それまでの人生において何某かの文章作品に接する機会があったはずであり、そうでなければ「小説」というものを作るなどという気にはならなかっただろう。故に、「小説」を書いている時点で、それは何某かの文章作品の影響を受けて行う二次的行為であるということになる。
 すなわち氏は、真の意味で一次的な創作活動はありえないということを言っているのである。
 そして、「批評」という行為も当然ながら二次的行為である。「小説」という特定の作品がなければ、「批評」は成立し得ない。至極明瞭な形で現れた二次的行為だと言える。
 だが、そうなってしまってはおかしなことになる。一次が無いのにいきなり二次が存在するはずはない。
 一次的行為はやはりありえるのだ。しかし、それは必ずしも「小説」側の行為だけがそれと言えるわけではない、ということであろう。
「批評」もまた、一次的行為なのである。

 以上、かなりの量、私見であることを改めて断っておくが、以上の考えをまとめて、ここでは「柄谷広告理論」と呼ぶことにする。これのより詳しい内容、より正しい内容は、当該書『言葉と悲劇』(講談社学術文庫)所収の「政治、あるいは批評としての広告」を当たってもらいたい。

 それでは、以上の理論を持ってして、私は「現実」と「幻想」の二項目間における関係を考察してみたいと思う。

 まず明確にしておかなければならないのは、「現実」と「幻想」という言葉の意味だろう。
「現実」は、そのまま、「現実世界」という意味で捉えていただけば良いと思う。
 では「幻想」はと言うと、これは謂わば「空想の世界」とでも言い換えられるだろう。
「現実世界」において行う空想、それによって生み出される架空の世界。その世界のことを、私は「幻想」と呼ぶことにしている。
 つまり、私は上で挙げた柄谷広告理論をこの二項目の間に適用し、一次性と二次性を逆転しうるのではないかと考えているのだ。
 この場合の、一次性を司るのは、「現実」となり、二次性を司るのが「幻想」となることは、改めて説明する必要は無いと思うが、簡単に言って、我々が生きている現実世界を基盤とし、その中で幻想は発生しうるのだから、以上のような割り当てになるということである。
 だが、これは従来の通念でしかないであろう。
 ここに柄谷広告理論を持ってくると、この二項目の立地点を逆転させることが可能となるように思えるのである。
 つまり、「現実」とは「幻想」を作るためにある材料であり、まず先に「幻想」がある、ということである。
「現実」の二次的存在への変換。
「広告」が「商品」を材料に一次的創造的活動を行うように、「幻想」とは、「現実」を材料に一次的創造的活動を行うということである。
「現実」とは、所詮、「幻想」のための材料に過ぎない。
 我々は、「幻想」という創造的活動のために、「現実」を利用しているに過ぎないのだ。

 さて、以上が私の考えなわけだが、はたしてこのような現実逃避が成立するのか、否か?

<了>


【参考文献】
・『言葉と悲劇』(1993、柄谷行人、講談社学術文庫)


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