殺霊事件


 プロローグ.殺霊論

 人に霊は殺せない。これは一般常識として誰しもが当然のこととして受け止めている。当然になっているから、誰もそのことについて疑問に思わず口にしな い。たとえ口にしたとしても、それは本心からではなく、そして聞き手の方も本気で答える事は無いから、このことについて本気で議論された事はないだろう。
 しかし、霊に人が殺される、ということは、ホラー小説などでも書かれる事がある。この一方通行が成り立つ理由は、霊は既に死んでいるから、誰かによって、また殺されるなどということはありえないという理由が強い。
 だが、はたして本当に人に霊は殺せないのだろうか? この一方通行の道を、どうにかして往復できるようにする方法は無いものか。
 ある。
 日本語というものほど、複雑で多様な意味を持つ言語は他に無いであろう。私が言う、「霊を殺す」というのは、広義の「殺す」ことによって可能に出来る。それは即ち、「成仏」させれば良いのだ。そうすることにより、霊は天国なり地獄なりへ行き、この地上界から姿を消す。
 そしてここで新たに持ち上がってくる問題がある。それは、天国と地獄の有無、である。
 まず、無かった場合を仮定して話を進めると、霊は成仏した時点で完全に世界から消滅する筈だから、それで完全に殺しきったことになるわけだ。それならば問題は何も無い。
 では、天国と地獄があったとしたらどうだろうか。もし成仏させた霊が天国へ行ったならば、霊は天国で生き続けるだろう。地獄へ行った場合も、極楽か苦痛 か、それだけの違いで、どちらにせよ、それでは完全に死んだわけではない。天国か地獄、どちらかに霊が行き着いた場合、人によって霊を完全に殺しきる事は 不可能になってしまう。
 だが、それは不要な事である。確かに、成仏させた霊は天国や地獄で行き続けるかもしれない。だが、地上界から姿を消すことが出来さえすれば、地上界に住 む人間達に危害を加える事はおろか、干渉することも不可能になる筈だから、とにかく成仏させてしまえば良いのだ。完全に殺しきるまで納得がいかない場合 は、別の「殺し」方をとれば良い。
 即ち、霊の封印。地上界の特定の空間への束縛。それを自ら行おうとする自縛霊というタイプの霊が存在したりするが、あれはいわゆる、人間で言う「自殺未 遂者」にあたる。しかし、それでは地上界に留めてしまい、完全に「殺し」きることは出来ないのではないかと思われるであろう。勿論、「自殺未遂者」で終わ らせればそういうことになってしまう。自縛霊というのは、特定の場所からは離れないが、人の前に姿を現すことがある。それは完全に死にきれていないから だ。それを成仏させて「殺す」ことも可能だし、また、特殊な力によって封印することも可能である筈だ。即ち、天国と地獄の代わりを、地上界に作ってしま う。封印によって地上界にある、地上界ではない空間に封じ込める。それはいかにもSFの世界の話であるが、霊の存在自体SFであるから論じる必要は無いで あろう。
 霊の特定の空間への束縛。それは、「成仏」とは逆の意味を持つ。「成仏」が穏やかな雰囲気を醸しているのに対し、「束縛」や「封印」は、穏やかならざる雰囲気を醸している。
 「成仏」がある種、治療のようなものであるのに対し、「束縛」や「封印」は、呪いのようなものである。
 呪い。それは今まで人がやってきたことの一つである。それは大抵、人が人に行ってきたものだが、それを霊に対して行えばどうか。そうすることにより、天国の有無にかかわらず、霊の完全抹殺が可能となるのではないだろうか。
 つまり、以上のことから以下のことが分かると思う。
 霊は一度は死んでいる。だが地上界に、人間の目の前に現れる。つまり彼らは死にかけなわけだ。その瀕死の状態の彼らを「殺す」事が、「呪縛」であり、治療し救う事が、「成仏」させる事と言える。
 呪縛こそが最大にして唯一の殺霊術であり、霊にとって最も恐るべきものなのである。


 1.追跡

 何故我々は存在するのか? 誰かに対する強い恨み――怨恨によってか。やるべきことがあるという執念によってか。もし私達の存在理由が前述した二つの理由のどちらかなのだとすれば、私は前者に属する。
 高原啓介。それが私の恨みの人の名だ。
 今、奴は自宅の玄関から外に出て来て、散歩へ向かった。時は午後十二時四十分。この時間になると散歩へ向かう、というのは今まで奴をじっと観察してきた成果だ。奴には特殊な力なんかもないし、元々鈍感だから、私が付きまとっていることには全く気付いていないようだ。
 奴はこれから、まず市立図書館へ向かう筈だ。はたして奴はいつものコースを辿り、市立図書館へ入っていった。私もそれに続く。
 図書館の中は中々に広く、市でも一、二を争う書物の宝庫である。私は以前、読書が大好きで、特に推理小説を読み耽っていた。だがそれも、今となっては昔の話だ。
 奴は一時間ほど市立図書館で過ごした後、近くの大通りに出て、立ち並ぶ店に気まぐれに入って冷やかしたりなどする。そうしてまた一時間程過ごした後、奴は次の目的地へと向かう。
 ここまでは今まで私が観察してきた事によって得た情報どおりの行動。予定外のハプニングは起こっていない。どうやらこのまま計画を実行する事が出来そうだ。
 私の計画。それは無論、高原啓介殺害計画だ。


 2.実行

 大通りを半ば程までやって来た時、奴に声をかける男がいた。時は午後一時五十分。
(奴だ)
 私の計画はここまで完璧に意のままに進んでいる。奴の登場も分かりきっていた。奴は私のもう一人の恨みの人なのである。そして高原啓介と、今登場したばかりの男――東雄太の二人で、私の恨みの人は全員である。
 奴らは二人して大通りを歩き出した。二人してあらゆる店の冷やかしをしたり、時には買ったりをして、約二時間を飽きずにも大通りで過ごした。
 そして奴らは、高原が家に帰る前に最後による店に入っていった。時は午後三時四十分。喫茶店オーシャン。高原はそこの従業員に顔を覚えられるほどの常連になっていた。
 奴らは揃ってアイスコーヒーとハムサンドウィッチを注文すると、アイスコーヒーはセルフサービスなので、奴らは自分で中身を取りにいかなければならなかった。そしてその時、チャンスは到来した。
 奴が席を開けている間に、ハムサンドウィッチが届けられたのだ。私はそれまで、店の外から観察していたが、このチャンスを逃すまいと、表玄関を通らずに 直接奴の席の隣に行き、奴のサンドウィッチに毒薬を仕込んだ。誰も気付く筈は無い。そして、私のもう一人の恨みの人が犯人となるのだ。
 全ては計画通りだ。私はまったくもって運が良い。この時間帯はこの喫茶店には客入りが最も少ない時間帯なのだ。奴らはそれを知っていてあえて来ているのだろう。それが自らを滅ぼす事になろうとは、知る由も無く。
 これで確実に二人を裁く事が出来る。一人は我が手によって殺し、もう一人は冤罪で人生の大半を冷たい牢獄内で過ごす事になるのだ。それでは不公平かのように見えるが、罪を着せようとしているほうの男は、それほど憎いわけではないから、これでちょうど良い罰なのだ。


 3.発見

 A県N市T区。この地元の派出所勤務の制服警官、加藤巡査は一人の中年女性に連れられ、ある喫茶店までやってきた。その喫茶店の名前は、オーシャン。
 そこには男が机にうつ伏せになって、口から血を垂らしていた。恐らく死んでいるだろう、加藤巡査は近くに行って脈を取るまでもなく、そう思った。確かに男は死んでいた。そこで、ここまで加藤巡査を連れてきた中年女性が叫んだ。
「ほら、死んでいるでしょう。ああ、どうしましょう?」
 彼女の存在を、その声で漸く思い出したかのように、ぴくっと体を震わせて振り向いた加藤巡査は、彼女を宥めにかかった。
「落ち着いてください。一一〇番には通報しましたか?」
 そして中年女性が答えようと口を開きかけた時、それを遮るように、
「私が通報しておきました」
 と、喫茶店のウェイターのような格好をした若い女性が、二人に近寄ってきてそう言った。
「あなたは?」
 加藤巡査は胸ポケットから警察手帳を取り出し、メモの構えをとりながらそう訊いた。
「私はこの店で働いているバイトのウェイターです。片瀬智香と言います」
 彼女の証言を聞いておいてメモした加藤巡査は、それから、ここまで連れてきた中年女性、店の従業員達と数名の客達に簡単な取調べを始めた。そして全員の取り調べを終えた頃、A県警の刑事たちが到着した。


 4.捜査開始

「おお、加藤君。久しぶりだな。元気でやっとるか?」
 そう言うのはA県警の庄山警部である。そして彼は、つくしのような長身で細身の身体を左右に揺らす独特の歩き方で加藤巡査に歩み寄りながら、快活に笑った。
「はっはっは。いや、すまんすまん。ここは殺害現場なんだからな、もっと礼儀正しくせんとな。さて加藤君、現場の状況を説明してもらおうかな」
 そう言われて答えるのは、無論加藤巡査である。彼と庄山警部は、以前に何度か事件捜査で会ったことがあり、それを機にして彼も、惣畑警部補と石田巡査も含めた四人で飲み歩く仲になっていたのだ。
「はい。被害者については連れの男性から聞きまして、三十二歳の男性、頭を見ていただけば想像がつくと思いますが、近くの寺の次期住職だそうで、高英とい う名を持っています。本名は、これも連れの男性から聞いたのですが、高原啓介というそうです。後で身に着けていた身分証でも確認しましたが、間違いはあり ませんでした」
「ふむ。その連れの男というのは?」
「はい、彼もまた寺の次期住職なんだそうで、僧仲間だそうですが、随分と緩い宗教らしく、休日は大分ラフな姿で街中を歩き回っているんだそうです。今は、中で待たせてあります。どうぞ、こちらです」
 そう言って加藤巡査は庄山警部達を喫茶店の中に誘導していった。庄山警部の後ろに、黙って付いてくる数名の刑事の中に惣畑警部補の姿もあった。
 喫茶店内は、クラシックな雰囲気の漂う、趣味の良いつくりだった。少なくとも庄山警部の趣味にはぴったりの雰囲気だった。窓とうい窓にはブラインドが全 て降りているが、店内は天上にぶら下がっているシャンデリアのお陰で暗さに困るような心配は全くなかった。そして店内には、クラシックな雰囲気を盛り上げ るものとして、BGMにフランツ・リストの《超絶技巧練習曲集 第一番 前奏曲》が流されている。
 そして彼らが加藤巡査の誘導先――男の座っている机に近づくと、男が気付いて立ち上がり、刑事達がするよりも先に質問をしてきた。
「どういうことなんですか、啓介は誰に殺されたんです?」
 それに対するは庄山警部である。
「ほう、あなたは高原さんが自殺したのではなく、誰かに殺されたのだとお考えなんですね?」
「あ、当たり前だろ! あんな死に方……それに、なんでここで死ななきゃならないんだ! アイスコーヒーを入れているときは普通だったのに……席に戻って、サンドイッチを一口食ったらあんなことに――」
「ちょっとお待ちになってください。サンドイッチを食ったら、といいましたね。とすると、それに毒が仕込まれていた可能性が高いですね。惣畑君、鑑識に言っておいてくれたまえ」
「分かりました」
 答えて、惣畑警部補はそこから去っていった。それを見送ってから、加藤巡査が報告の続きを始めた。
「では、報告を続けます。従業員と客に簡単な聴取を行った結果、この事件に関して判明した事は、皆無と言っても過言ではありません。その聴取の内容といい ますのは、皆同じようなもので、二人――というのは被害者とこちらの、東雄太さんのことですが――が揃ってアイスコーヒーを入れているのを目撃していま す。皆さん特に意識して彼らを見ていたわけではないので、それぐらいしか確実な情報は得られていません。
 ですが、このことから、私には一つの考えがあるのですが――」
「ふむ、考えか。どんなものか聞かせてくれるかな」
「はぁ、しかし……ここではちょっと……」
 そう言いながら加藤巡査は、すぐ近くに腰を下ろしている東雄太をちらちらと見やった。その様子で察した庄山警部は、
「ふむ、分かった。では向こうへ行こうか。――君、君はここに残っていてくれたまえ」
 と、一人の私服警官を残し、加藤巡査と店のバーの方へ向かった。


 5.容疑者は一人?

 バーの前には惣畑警部補が立っていて、従業員の男らしき人物との話をちょうど終えたところだった。すると惣畑警部補は近づいてくる庄山警部と加藤巡査に気付いて、
「庄山警部、鑑識に言ってくるついでに、こちらの――ここで働いている川本義則さんに少しお話を伺っていたんですが、彼が被害者のテーブルにサンドイッチを運んだそうなんです」
「そうか。――君が、被害者のテーブルにサンドイッチを運んでいったんですね?」
 庄山警部にそう問われて、少々狼狽しながらも、男はおずおずとではあるが、口を開け早口でこう言った。
「は、はい。私が運びました」
「そうか。では、惣畑君はこの人にもっと詳しく話を聞いておいてくれ。私は加藤君と少し話があるのでな」
「分かりました」
 と、惣畑警部補は物分りの良い返事をし、喫茶店の従業員の男とどこか別の場所へ歩いていった。そして、それを見送った庄山警部と加藤巡査は、バーの前の椅子に座した。
「さて、加藤君。それでは、君の考えというのを聞かせてもらおうかな」
 手を擦り合わせながらそう促す庄山警部を見て、こくりと無言で頷き、加藤巡査は自分の考えを述べ始めた。
「はい。私の考えと言いますのは、簡単なことで、従業員と客の証言から考えると犯人は一人しかいません。警部も気付いているのではないですか?」
「ああ、想像はつくよ。どうせ、被害者のサンドイッチに近づけた者の中で動機があってもおかしくない者は一人しかいない。あっちの席に座っている――東雄太さんだったか。彼が犯人だ、とでも言うんだろう」
 庄山警部は相手を見ずに、気の無い口調でそう言う。
「やっぱり分かりましたか。しかし、彼しか考えられないじゃないですか。他の人物は犯人たりえないんですよ」
 熱弁を振るう加藤巡査に対し、冷めた感じで相手の顔を見もせずにぼうっとしていた庄山警部は、そこで背筋を伸ばし、一語一語区切って、そこで初めて加藤巡査の顔を見据えて言った。
「だがね、加藤君。我々の到着するまでの、短い時間の間に、ちゃんと、全員の、証言を、聴取できたのかね? ちゃんと、だよ。重要なのはこれだ。法廷で証 言してもらわなきゃならなくなることだって充分にあるんだ。宣誓の上でそう断言できる情報を、君は全て回収した上でその意見を出したのかな?」
「そ、それは……全ての情報は、まだ、回収できていないかと思います」
 庄山警部に問い質され、それまでの威勢はすっかり消えうせ、加藤巡査は俯き、声も大分低くなっていた。
「そうだろう。そうだろうとも。加藤君、覚えておかなければいけないよ。ちゃんとした情報を得ないまま、そうやって決め付けるのはいけないことだ。まぁ、 君のように若い頃は私もそんな間違いをしたものだ……だが、そんなことはいつまでも続けてちゃいかん。さぁ、分かったらもう一度きっちりと聴取を取ってき てくれたまえ。その仕事は君に任せるよ」
 庄山警部は立ち上がりながらそう言い、加藤巡査の後ろを通り過ぎる時に彼の背中を一叩きして、惣畑警部補達が歩いていった方向へと立ち去っていった。
 加藤巡査は、庄山警部も認める力の持ち主で、庄山警部は、彼は将来警部以上にはなるだろう、と踏んでいるのだった。だから聴取の仕事もまかせられるのだ。
「ありがとうございます!」
 加藤巡査は顔を輝かして再度聴取に取り掛かった。


 6.川本義則の証言

 惣畑警部補と喫茶店の従業員でウェイターの川本義則は、喫茶店の外の円卓に向かい合って座っていた。この喫茶店では外でもパラソルの下で食事が出来るのだった。
「ではまず、あなたはこの店へ何時に出勤されましたか?」
 惣畑警部補が川本への尋問を開始した。
「はぁ……出勤時間ですか。確か、午前八時前ぐらいだったかと……」
 質問の意図が掴めないといった調子で彼はそう答えた。
「ええ、では、もう一度確認させていただきますが、あなたがあのサンドイッチを被害者のテーブルまで運んでいったという事実、そこに間違いはありませんか?」
「はい、間違いありません」
 川本は下を向いたまま惣畑警部補の方は見ようとしない。手はグーにして膝の上に置かれている。
「では、あのサンドイッチは誰が作ったんですか?」
「え……私には分かりません。厨房にいた誰かと言う事しか……私はウェイターですから、厨房には入りますが料理を作っているところを見ているわけではありません。ですから、私が取りに行く頃には、作った本人は他の事をしているでしょうから、私に分かるはずが無いんです」
「そうですか。では、あのサンドイッチは前もって作ってあったもの、という可能性はありませんか?」
 そこで川本はぐっと顔をあげて、惣畑警部補の目を正面から真っ直ぐ捉え、
「そんな!? そんな職務怠慢を、ここの店の人がするわけがありません。私は従業員は勿論、バイトの人とも結構仲が良いんです。ですが、そんな怠け者はこの店にはいませんよ!」
 大きな声を上げる川本に怯みもせず、惣畑警部補は淡々と次の質問を繰り出していく。
「そうですか。それは失礼しました。では、次の質問ですが、あなたはあのサンドイッチを運んでいる時、誰かとすれ違ったり、立ち止まってサンドイッチをどこかに置いた、あるいは、サンドイッチからあなたが目を離す時があった、などということはありませんか?」
 口だけではあったが、素直に謝られた川本は、機嫌を直してまた元の調子で下を向いたまま返答した。
「あなたの言いたいことは分かります。私がサンドイッチを運んでいる途中で、そのサンドイッチの中に誰かが毒を入れるチャンスはなかったか、と訊きたいの でしょう。それはありえませんと断言できます。私はそのサンドイッチを運んでいる時、自分の胸の前にして運んでいましたが、その途中、誰とも会いませんで したし、サンドイッチの乗った盆をどこかにおいたりするようなこともありませんでした。私は真っ直ぐ、お客様のテーブルにまで御運びしました」
「そうですか。それでは、サンドイッチを運んだ後、あなたはどうされましたか?」
「どうって……他にウェイターの必要そうなお客様がいなかったので、盆からサンドイッチの皿を取り出してテーブルに置いたら、私は厨房の入り口付近まで戻って行って、そこで待機していました」
「分かりました。これで質問は終わりです。また後で他の刑事が質問に来るかもしれませんが、答えてやってください。私ももう一度くるかもしれませんし」
「はぁ、分かりました。……では、私はこれからどうしたら良いのでしょう?」
「ああ、そうですね。捜査がありますから営業を続けるわけにも行きませんし、かと行って帰宅されても困ります。もう少し警察の捜査に付き合ってもらわなければなりません。まぁ、これも市民の義務と思って諦めてください」
 そう苦笑して説明する惣畑警部補に、二度目の視点合わせをした川本は、微笑して、
「分かりました。最後まで御付き合いするしかないようですね」
 と言って店内へ入っていった。そして彼と入れ違いに、中から庄山警部が出てきた。どうやら惣畑警部補のほうへ向かってくるらしかった。
 まず声をかけたのは、庄山警部のほうだった。
「どうだったね、惣畑君。彼の聴取は?」
 庄山警部は、元々川本義則が座っていた席に座ってそう訊いた。
「はい。中々ちゃんとした情報が得られました。と言っても、犯人が誰だか分かるほどではありませんが」
「そりゃそうだろう。たった一人の事情聴取をしたぐらいで犯人が分かってしまっては、この世の警察がわざわざ犯罪捜査をする必要は無いだろうよ」
「はは、そうですね」
「今、加藤君が事件関係者の聴取に奔走しておるよ。あまり人数もおらんようだから、彼一人でも充分だろうが、我々も協力してやったほうがより良いと思わんかね?」
 庄山警部のその提案によって、二人はまた店内へ戻って行った。そして、加藤巡査の聴取を手伝う事になった。


 7.葉山良子の証言

 中では加藤巡査が一人の中年女性に向かって、熱心に警察手帳にメモを取りながら聴取をしているところだった。
「……そうですか。よく分かりました。ありがとうございました。これであなたへの質問は終わりです。――あ、庄山警部に惣畑警部補じゃないですか」
 女性への聴取を終えた彼は、二人が見ているのに気付いて、近づいていった。
「今さっき聴取していたのは、私をここまで連れてきてくれた方です」
 加藤巡査は後ろを振り向いて、手をさっきの中年女性に向けながらそう説明した。
「御二人に、あの方の証言をお聞かせしましょうか?」
「そうだな。これからの捜査に役立つかもしれんし。先に聞いておくのも良いだろう。どれ、話してくれたまえ」
「それでは……立ち話もなんですから、あそこのバーでお話しましょう」
 そして三人はバーの前に横並びに座した。右に加藤巡査、真中に庄山警部。左に惣畑警部補という配置である。
「ええと、ですね。さきほど聴取していた彼女の名前は、葉山良子と言います。この店には初めてだそうです。まだ従業員の方に聴取していないので、常連じゃないかどうかは確かではありませんが、そんなことに嘘をついてもどうしようもないでしょうから本当でしょう。
 そして、私は訊いてみました。どのような状況で高原啓介が死んでいると知ったのかを、です。すると答えは、次のようなものでした。彼女はセルフサービス ――この店の飲み物は水以外はセルフサービスなんですが――のオレンジジュースを取りに行くために被害者の席の近くを通った時に、高原さんが急に立ち上 がって呻きだして、血を吐いたんだそうです。そして彼は、口を抑えながらすとんとまた椅子に腰を落としたんですが、また血を大量に吐きまして、ぐったりと 前のめりに倒れ、それ以来、ぴくりともしなかったそうです。因みに、私が発見した時もその証言に合う状態で被害者が倒れていました」
 そこで加藤巡査は一息休息をいれたのだが、庄山警部はすぐに、ふむ、それで? と促した。加藤巡査はほんの一瞬ではあったがその一息で充分満足したようで、嫌な顔一つせずに続きを始めた。
「はい。それで次に、私は彼女に、死体を見つけた時、付近に人はいなかったか、と訊きました。すると……ええと、ちょっとお待ち下さい」
 そう言って加藤巡査は、警察手帳を取り出して証言の内容を思い出すためにメモしたところを見た。
「ええと、ですね。なんとも曖昧なんですが、『私が男に近づいていっている時、男にまだ異常が見られなかったときに、ちらっと視界の隅に誰かが移った気が しました。でも、かなりぼんやりしていて、まるで幽霊のようでした』との事です。彼女、かなり度のキツイ眼鏡をかけていましたので、ぼんやりしていたの は、レンズの外で捉えたせいなのではないか、と訊いたところ、そうかもしれない、それにもしかしたら、太陽光がレンズに反射した何かを見間違えたのかもし れない、との事です」
「ほう。誰かがいたかもしれないのか。それは貴重な情報だ。よくやってくれた」
 大先輩である庄山警部にそう褒められて照れ笑いをする加藤巡査に、加藤巡査から最も遠い席に座している惣畑警部補が、感情のこもっていない口調で質問をした。彼は捜査中になると、いつもの温厚な性格はどこへやら、冷淡な一刑事に変貌するのだった。
「加藤君。それで葉山さんへの質問は全てなのかい?」
 加藤巡査の笑顔はさっと消え、惣畑警部補の方を見ながら、
「はぁ、それだけですが……」
「葉山さんが被害者のテーブルに近づくまでに誰かとすれ違ったり見たりしなかったか、葉山さんは何時にこの店へ入ったのか、いや、そんなことよりもっと重 大なことを忘れている。被害者が苦しんでいる間中、東雄太氏は何をしていたのか、君は以上の三つは勿論のこと、さっき君が言った以外の他の質問は何もしな かったのかい?」
 淡々とした口調で問い詰める惣畑警部補から、加藤巡査は既に視線を外していて、川本義則のように俯いていた。
「はぁ、訊いていません。すっかり、忘れていました……」
 彼は漸くそれだけ言って、突然立ち上がった。
「もう一度彼女に訊いて来ます」
 そう言って立ち去ろうとする加藤巡査を、庄山警部が呼び止めた。
「待ちたまえ、加藤君。そう何度も同じ人へ連続した尋問はよしたまえ。相手を不快にさせてしまっては、得られる証言も得られなくなってしまうんだぞ。君はやはり、まだ捜査馴れしていないようだな」
 そう言われて加藤巡査は、がっくりとうなだれて、無言のまま元の席に腰を落ち着かせた。
「それで、だ。加藤君、君は私の与えた時間内に、聴取できたのは彼女だけだったなんて言って、私を失望させるんじゃないだろうね?」
 そこで加藤巡査も気を取り直し、はっきりとした声で返答した。
「あ、いえ。あと一人、アルバイトの方に尋問しましたが、大して重要だと思える情報は得られませんでした」
 庄山警部が何かそのことについて言う前に、そこでまた惣畑警部補が口を出した。
「ほう。重要かそうでないか、君には見分けがつくようになったんだな。もしそうだと言うのなら、分かった、君の判断通りにして、その人の証言は聞くだけ時間の無駄と言うものだろう。また尋問を再開してもらうとしようか」
「まぁまぁ、惣畑君。一応聞いておこうじゃないか。この店の周りは我々警察が包囲しているから、もしまだ内部に犯人が残っているとしても脱出は不可能だ し、外に逃げているとしたら、今頃追いかけた所でどうせ間に合わんよ。聞いたって損ではないと思うがね。どうだね、加藤君。話してくれないかな」
 そう庄山警部に励まされて、加藤巡査は、アルバイトのウェイター、片瀬智香の証言を話し始めた。


 8.片瀬智香の証言

『はい、私が片瀬智香です。はい、アルバイトでウェイターをやってます。え、出勤時間ですか? 確か……午後の、三時半過ぎ、ぐらいだったと思いま す……。はい、さっきもあなたに直接言いましたように、私が警察に通報しました。え、何故私が通報したか、ですか? 御連れの方は混乱というか興奮と言う か、とにかく取り乱していまして通報どころではなかったようですし、あの小母さんも取り乱していて……でも御連れの男の方よりは幾分冷静だったので、近く の交番まで行ってお巡りさんを連れてきてもらうように言いました。その間に私が一一〇番に通報したんです。
 それから、ですか? それからは、私はレジの女の子と――同じ大学の友達なんですけど――不謹慎ながら、事件について話していました。どんなことを話したのか、ですか……それは……誰が殺したんだろうね、とか、そんなような事です』
 加藤巡査が片瀬智香の証言を簡単に説明し終わると、庄山警部がまずコメントを出した。
「ふむ。確かに、聞いた限りでは大した情報は無さそうだな……どう思うかね、惣畑君?」
 惣畑警部補は、考え込んでいたためにすぐ返事が出来なかった。数秒たって、漸く一言。
「興味深い証言です」


 9.事件関係者全員の証言合わせ

 それから、惣畑、加藤の二刑事は、他の刑事達と一緒に事件関係者の証言集めに奔走した。その結果、午後六時には全ての証言を集め終える事が完了した。だ が、まだ関係者は誰一人帰宅を許されていない。以下、簡単に従業員と客の証言、そして鑑識の努力により判明した事実を合わせたものを列挙する。
・高原啓介と東雄太は、喫茶店オーシャンの常連だった。
・高原啓介と東雄太は、喫茶店オーシャンに来る時はいつもアイスコーヒーは必ず注文していた。
・高原啓介と東雄太は、外のテラスで食事をすることもあり、店内で食事をすることもあった。
・高原啓介と東雄太は、午後三時四十分に喫茶店オーシャンに入っているのを複数の従業員やアルバイトに確認されている。
・被害者に自殺をしようとする素振りは誰にも見えなかった。
・アイスコーヒーには毒は入っていなかった。
・被害者のサンドウィッチにのみ、毒は検出された。
・毒は青酸カリであった。
・厨房にはウェイターと料理人以外は誰一人部外者が入ってきていないことを、料理人の一人が宣誓の上で保障できる。
・葉山良子は喫茶店オーシャンに入るのは今回が初めてである。
・葉山良子は午後三時三十分に喫茶店オーシャンに到着している。
・葉山良子は高原啓介のテーブルを通ろうとした時、ぼんやりとした影を眼鏡のレンズ外から目撃している。
・上の証言は、川本義則も指示している。つまり彼も同じ頃、葉山良子とぼんやりした影を、視界の片隅に目撃している。
・川本義則は午前七時五十分ちょうどに出勤しているのを、他の従業員に確認されている。
・川本は出勤後もずっと店内に居たことも確かである。
・片瀬智香は午後三時三十分頃に出勤してきたのを他のアルバイトや従業員複数に確認されている。


 10.証拠

 ここまで捜査を進めて、各自が集めた証言を全員が持ち寄って頭を捻った結果、案外簡単に犯人の推定が出来た。その犯人の推定は最終的には惣畑警部補の言 葉にして表されたが、他の刑事達も大体予想していたことだったので、驚く者はいなかった。だが、犯人が誰か分かっても、物的証拠が何も無い事にその時気付 いたのであった。物的証拠がなければ逮捕は難しい。自供をしてくれれば話は早いが、そう簡単にいくものだろうか。たとえ自供させるにしても、何か一つぐら いは物的証拠がなければしらばっくれられて御終いだろう。
「何か物的証拠はありませんかねぇ」
 加藤巡査がバーの前を行ったり来たりしながら呟いた。
「落ち着いて座りたまえ。そうぶらぶらされたんでは、集中できんよ。何かないものかと皆必死になって考えているんだから」
 そう庄山警部に言われて、加藤巡査は申し訳無さそうにバーの椅子の一つに腰を落ち着けた。
「物的証拠か……指紋なんてどうです?」
 提案したのは惣畑警部補である。
「駄目だ。鑑識からさっき連絡が入ったが、被害者の皿からは被害者の指紋と、ウェイターの川本氏の指紋と、厨房の料理人の指紋が出ただけだったよ」
「では、ハムは調べましたか?」
「ハムだって?」
 惣畑警部補の意外な言葉に、一同はびっくりして彼の顔を凝視した。
「確か被害者の注文したサンドイッチは、普通のハムのサンドイッチだったはずですが……ハムのようなつるつるしたものなら、指紋が残っている可能性はあるんじゃないですか?」
 そして庄山警部はA県警の鑑識に電話でその件を問い合わせて見た。はたしてハムからは犯人の指紋が検出された。片瀬智香の指紋が。


 11.惣畑警部補の説明

「よし、これで逮捕に踏み切れる」
 勢い込んで庄山が言う。
「そうですね。ですが、犯行方法を確認しておいた方が良いでしょう。皆さんもどうやら気付かれたようですが……」
 惣畑警部補の提案により、事件の再検討がその場でされることになった。庄山、惣畑、加藤の三人はバーカウンターに、他の刑事達はその後ろのテーブルの周りの椅子に座り、それは始まった。
「では……そうだな。惣畑君、まずは君の説明を聞こうか」
 庄山警部に促され、惣畑警部補は刑事達全員の顔を一瞥した後、自分の考えを述べ始めた。
「ええ、私の考えでは――と言いましても、皆さんも同じ事を考えていると信じますが――、犯人は間違いなく片瀬智香であり、証拠は既に発見されました。
 では、彼女はどのようにして高原啓介氏を殺害したのか。動機の問題はひとまず措いておきまして、まずはこちらを検討してみようかと思います。
 彼女は、彼女自身の証言と他の証人達によって証明されている通り、午後三時三十分頃にここ喫茶店オーシャンに出勤してきました。そしてその後間もなく約 十分後、今回の事件の被害者である高原啓介氏と東雄太氏が片瀬智香の働くこの店に到着しました。この三人の到着時刻が密接なのは、もしかすると彼女は出勤 までの間、この二人を尾行していたのかもしれません。そして、その後間もなく、高原啓介氏らはアイスコーヒーとハムサンドを注文しています。アイスコー ヒーはセルフサービスだったため、彼ら二人はアイスコーヒーを取りに席を離れました。そして、運悪く……その間に運ばれたハムサンドに、片瀬智香は毒を混 入。高原啓介氏を死に至らしめた。
 運悪く……そこがひっかかった方もおられるでしょう。ですが、高原啓介氏らはこの店の常連でした。そして、アイスコーヒーはここに来た時は必ず注文して いたのが分かっています。その点を考え合わせれば、彼女が偶然にまかせたのも説明できない事もないでしょう。彼女はすぐにナイフで殺す事はせずに毒殺とい う方法を取ったのですから、粘り強い性格であることも伺えます。
 現実の事件の犯人が、推理小説に出てくる犯人のように、律儀にも偶然にまかせた犯行をしないとも限らないでしょうしね。  これで彼女の犯行方法は分かっていただけたと思います。ですが、これは彼女にも犯行が可能であったという証明にしかなりません。そこで、彼女以外にもこの犯行が可能であったものがいるかどうか検討してみたいと思います。
 まずは、葉山良子さん。彼女は、この店の常連ではありません。この事実だけで容疑者から除外する事は可能です。なにせ、この事件はこの店に高原啓介氏が 足繁く通っている事を知っていなければならず、尚且つ、彼らがいつもアイスコーヒーを注文することを知っていなければなりません。彼らは、今日は外のテラ スで食事をしようとしていましたが、いつもそこで食事をしているわけではないのです。中はご覧の通り、全ての窓にはブラインドが下ろされていて、外から中 の様子を窺うことは不可能になっています。これで彼女を容疑者から除外できます。
 次に、東雄太氏の場合。彼は問題なく容疑者からは外せるものと思います。何故なら、彼は高原啓介の友人であり遊び仲間なのです。それならば、この店のよ うな容疑者の限定される空間で殺人を犯すのは、あまりにも馬鹿げています。彼ならばもっと自分に有利な状況で殺す事が出来たでしょう。
 では、川本義則氏の場合はどうでしょうか。彼はこの店の従業員です。高原啓介氏らがこの店の常連である事も知る事が出来た人物です。しかし、彼は出勤後 もずっと他の従業員や客の証言によって行方不明の時間がありません。だからと言って彼に犯行の方法が無かったわけではありません。彼はウェイターです。し かも、被害者のハムサンドを運んだのは彼でした。正直申しますが、私が最初に疑ったのは彼でした。そして、彼が犯人ではないという要素を見出す事も未だ出 来ていません。ですが、少し気になる事があるのです。それは、葉山良子さんの証言にもあったのと同じ、ぼんやりとした影を見たという証言です。彼が犯人 だった場合、何故そんなつまらない事を言ったのでしょうか? そして、何故葉山さんも同じことを言ったのでしょうか? 葉山さんは眼鏡が日光を反射した加 減で何かを見間違えた可能性もありますが、だとしても、川本氏があんなことを言う理由にはなりません。そこが気になるんです。ほんの些細な事ではあります が。しかし、殺人を犯した犯人の心理としては、私のこれまでの経験上、こう言った余計な証言をすることは考えにくいのです。そこで私は、彼以外に犯人がい るのではないかと思うようになりました。そこで現れたのが片瀬智香です。しかも、ハムサンドの中のハムに、ある筈のない指紋までが発見されたのですからこ れは確定的でしょう。これだけで、片瀬智香の逮捕に踏み切るのは充分かと思います」
 以上の惣畑警部の説明によって、刑事達は片瀬智香逮捕を決心した。
 かくして、片瀬智香はあっさりと容疑を認めて逮捕される事になった。犯人はやはり、彼女だったのだ。


 エピローグ.殺霊者

 A県警察署内取調室。そこには惣畑警部補と速記者の役を務める刑事が一人、そして今回の事件の犯人の計三人が、それぞれの椅子に座っていた。
「さぁ、動機は何なんだ? そろそろだんまり決め込むのもやめて、話してもらえないものかな」
 彼女はこの部屋へ入ってから、一言も口をきいていないのだ。いや、この部屋に入る前からも殆どまともな口をきいていなかった。
 だが、今になって漸く、彼女の重い口が開かれようとしていた。
「……母は」
「ん、なんだって? すまないがもう一度大きな声で言ってもらえないかな」
「……母は、殺されました」
「殺された? 高原啓介氏にか?」
「そうです。あの人も……」
「あの人? まさか東雄太氏のことか?」
「そう……でも、主犯は高原よ。高原は、私の母を……」
 それから彼女はゆっくりと、高原啓介殺害の動機を語りだしたが、途切れ途切れで、かなり文章として表現するには読みづらいものとなるため、以下に分かりやすく編集する。
 
 ある日、片瀬智香の母は町での買出しを済ませて家路を急いでいる所だった。バザーで買いすぎて帰りが遅くなってしまったのだった。
 そして彼女は近道をしようと考えた。大通りに来た所で、裏路地から入って行けば、大通りを抜けるよりも人通りも少なく、道程をショートカット出来るの だ。そこが彼女の運命の別れ道だったのだが、彼女は間違って、以降選択肢を選ぶことの必要のない方を選んでしまったのだ。つまり、彼女は死の道を選んでし まった。
 裏路地を大分奥まで行った所で、彼女は運悪く、二人の男と出会ってしまった。その二人こそ、高原啓介と東雄太だったのだ。
 高原啓介は、日頃の遊びで金に困っていた。東雄太はそうでもなかったため、いつも遊ぶ時は殆ど東が金を払っていた。そんな経済状態の悪い高原は、たくさ んの買い物袋を抱えた片瀬の母を見つけると、こう考えた。あんなにたくさん買い物が出来るのなら、かなり金を持っているはず……と。
 そして、高原は東に、あいつを襲って金を奪おうと相談した。だが東は反対した。それは犯罪だ、と。だが、高原はそんな制止は振り切って犯行に及んだ。東 は最初のうちはやめさせようと引き止めていたが、彼も金持ちというわけではなかった。その金欲が災いし、気を緩ませた隙に、高原がガツンと、裏路地の脇に あったコンクリートブロックで片瀬の母の頭を叩き割ってしまったのだ。
 高原も殺すつもりではなかったらしいが、やってしまったことは消しようがないのだ。
 片瀬智香は、母の帰りが遅いことを心配し、裏路地を通って母を迎えにいこうとしていた。そして、裏路地の奥へ行ったところで、彼女は女性の悲鳴を聞い た。彼女にはそれが自分の母親の発した悲鳴である事が分からなかったと言う。あの時、自分が気付いて駆け出していれば、あるいは母は助かったかもしれない と、取調室で誰にとも無くそう呟いていた。
 そして、その頃、片瀬智香は怯えて途中で立ちすくんでいたのだが、二人の男らしき話声が聞こえてきたので、そちらの方へ歩いていった。するとその男達の 話している内容が聞き取れたのだという。その内容というのは、『おい、どうするんだよ!』『知るかよ! 殺っちまったもんはしゃぁねぇだろ!』『くそっ、 こんなことになるなんて!』『仕方ねぇ、運ぶぞ』『何? 運んでどうするんだよ!』『遺棄するしかねぇだろうが、捕まっても良いのか?』……などというも のだったという。
 男は裏路地の、片瀬智香の立っていた道とは違う、別の抜け道からどこかへ行ったようだった。そして片瀬智香は、恐る恐る声のしていたほうへと歩を運んで いった。そこには真っ赤な、新鮮な血溜まりがあったという。その時彼女は不思議と、この血は自分の母親のものであると察した。
 そして彼女は、急いで男二人の後を追った。
 男二人は、どちらかのかは分からなかったが――後に彼女が調べたところによると、高原のほうの――、寺の裏庭にまで母の死体を運んで――そこまで運ぶには、絶好の誰にも見つからないルートがあった――、穴を掘って埋めたのを、彼女は自分の目で見たのだそうだ。
 だが、彼ら二人は、母親をただ埋めるだけでは満足しなかった。穴を掘っている途中で、彼らは次のようなことを話していたそうだ。
『おい、まさか、俺達呪われたりしねぇよな』『馬鹿言え、そんなわけ……ある、かよ』『なぁ、やっぱりやべぇって。こんなことしたら、絶対呪われるぜ、俺 達』『なんで、俺達、なんだよ。俺は殺してねぇぞ。殺したのはお前だ』『なんだよ! そんな言い方はねぇじゃねぇかよ! お前だって穴掘り手伝ってんだ ぜ』
 この話から、母を殺した主犯の男は、今頃になって母の霊に呪われるのではないか、ということに恐れをなしているようであることが分かった。とんだ腰抜けである。
 そして、彼らは相談の結果、寺に伝わる呪いの儀式を行う事になったのだと言う。その呪いの儀式により、母親の霊を完全に殺そうとしたのだ。そして儀式は完全に成功したようだった。『これで大丈夫だな』『あぁ、これで……』という男二人の溜息が聞いて取れたのだ。
 片瀬智香の母は、何をしたわけでもないのに殺され、しかも見知らぬ土地に埋められて、更には変な呪いで完全抹殺させられた。男の話を聞いて、母は特殊な 空間に閉じ込められていて、成仏も出来ず、人間達の世界に現れて祟りを起こすこともできなくなっているのだという。そして、彼らは遂には、母の遺骨を粉々 に粉砕して、近くの川に流してしまったのだそうだ。
 片瀬智香の母親は、完全に殺された。この世から、完全に抹殺された。こんな理不尽な事があって良いのか? 良いはずがない。
 そしてそれら一部始終を見ていた片瀬智香は、その時から復讐鬼になることを誓ったのだった。

(了)


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