「コミュニタス」について 「コミュニタス」について

(1)解説

 ヴィクター・ターナーの提唱した「コミュニタス」という概念の意味を理解するためには、ヴァン・ジュネップの「通過儀礼」について、前もって知っておく必要がある。
 では「通過儀礼」とは何か。ジュネップは、それを三段階に分けて説明している。すなわち、「分離」→「移行」→「再統合」の三段階である。それは一般的に、誕生・結婚・死などの人生の節目に行われる移行儀礼のことを指していると言える。
「分離」とは、「死」によってもたらされるものである。この場合の「死」とは、肉体的な死とは限らない。その死もまた通過儀礼の「分離」として捉えることは可能だが、この場合の「死」はそれだけに限定されるものではない。
「分離」としての「死」というのは、つまり「それ以前の状態の終焉」を指す。
 たとえば、結婚することになった場合、元々は「独身」という状態であったところから、「夫婦」という状態へ移行することになる。その「独身」と「夫婦」との間の「変化の始まり」のことを、「分離」と言うのである。
 次に「移行」について説明する前に、先立って「再統合」について説明しておこうと思う。
「再統合」とは、「分離」によって行われる「変化させられる次の状態になり終わる」ことを指す。
 先に挙げた例えを用いるなら、結婚における、「独身」という状態から「夫婦」という状態への移行の中の、「夫婦」という状態への「変化の完了」だと言い換えられるだろう。
 では最後に、「移行」について。
「移行」とは、上述の「分離」と「再統合」の間にある状態、つまり「それ以前の状態から次の状態への変化」そのものと言えるだろう。簡単に言えば、「移行」とは「変化」と言い換えることができるということである。だがこれもまた、一つの停止しうる「状態」として捉えられるのであり、もしこれが無ければ、「分離」→「移行」→「再統合」とはならず、「分離」→「再統合」という捉え方で済まされることになってしまうのである。
 また、「移行」の状態を結婚で例えるならば、「独身」と「夫婦」の間の、「婚約」の状態と言えるだろう。結婚を完了して「夫婦」となるには「婚約」という「通過儀礼」を行う必要があるのだ。
 つまり、「通過儀礼」の中の一部である「移行」という状態は、「通過儀礼」の要であり、「移行」を経るからこそ、それが「通過儀礼」と呼ばれるということである。「移行」の無い「変化」は、それは「通過儀礼」とは呼ばれえない。「結婚」という「通過儀礼」を正しく(この場合は「婚約」を経て)完了しなければ、彼らは「夫婦」とは認められないということである。
「コミュニタス」とは、以上の三段階の移行儀礼の中の、特に「移行」という部分を抽出して付けられた、別の形容であると言える。
 ターナーは、この「コミュニタス」という状態を経験することが必要だと考えた。彼の「コミュニタス」は、「構造」に対比するものとして考えられていたからである。
 この場合の「構造」とは、レヴィ・ストロースの構造主義のそれとは違う。
 ターナーの言う「構造」とは、人間社会の封建制を指すと言って良いだろう。すなわちターナーの言う「コミュニタス」とは、人間社会の封建制に反するもの、封建制の抑圧によって蓄積されたストレスを解消するための装置としての概念のことなのである。
 ターナーは、「コミュニタス」という概念を、更に三分割している。
 まず、「自然発生的コミュニタス」というものがある(これは「実存的コミュニタス」とも呼ばれるが、ここでは「自然発生的コミュニタス」と呼ぶことにする)。これが、ターナーが「構造」に対して必要だとしているコミュニタスのことなのではいないだろうか。これは、人々が個人として平等に向かい合い、その結果、人類は同質的であり、構造化されていない自由な共同体であると考えられる、そんなコミュニタスのことである。
 これには「リミナリティ」という概念の理解も必要であろう。
「リミナリティ」とは、移行儀礼の中の、「移行」の段階、すなわち「どちらにも属さない無所属状態」のことを指す言葉である。そして、この無所属状態の中では、人間社会の封建制は逆転し、「構造」の中では上位だった者が下位に、下位だった者が上位にと変換され、この時期を利用して、「構造」の中で下位の者は、蓄積されたストレスを発散させることが出来るのであり、このストレス解消装置があるからこそ、人間社会は成立するのだと、ターナーは考えているのだ。
 そして次に、「自然発生的コミュニタス」からの派生として、「規範的コミュニタス」と呼ばれるものがある。

これは、本来実存的(自然発生的---筆者注)であったコミュニタスが社会体系の中に組み入れられ、多少なりとも組織化されたものである。とはいっても、功利性を本来的な存在根拠とする「構造化」された集団とは異なり、規範的コミュニタスはあくまで同胞精神や仲間意識といった非功利的経験から出発している。
(引用元p.125 l.5『文化人類学キーワード』 (山下晋司・船曳建夫編、有斐閣))

 最後に、「イデオロギー的コミュニタス」というものがある。
 これは、上述の二つのコミュニタスとは違い、独立して存するものだが、ある意味では存在しないとも言える。それはつまり、この「イデオロギー的コミュニタス」が、「自然発生的コミュニタス」を実現するための最良の条件を提供する、社会のユートピア的モデル、もしくは青写真に付けられるラベルだからである。つまりは「理想(イデア)」であり、それは存在しない究極点であるからこそ、「イデオロギー的コミュニタス」と呼ばれるのである。


(2) 例示と、その考察

 この「コミュニタス」という概念は、人間社会における「通過儀礼」の必要性を説くものなのではないかと思う。
「コミュニタス」という概念が創出(発見と言うべきか?)されていなければ、「通過儀礼」の存在理由は、よく分からないものとなり、その存在は、今よりも疎かにされてしまっていただろう。何故なら「コミュニタス」とは、それがあるからこそ人間社会は保たれているのだという概念であり、大黒柱的な必要不可欠の装置として考えられているからである。
 では、最近「オタク」やら「アキバ系」などというものが話題になっているが、彼らの趣味であり、彼らがそう呼ばれる所以たる「サブカルチャー」を例にとって考えてみたいと思う。
 まず、「サブカルチャー」とは何か、という説明から入ったほうが良いだろう。ここではその意味を、「アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベル」といったものを指すとしておく。文学に限って言うならば、「ライトノベル」はサブカルチャーであるが、「純文学」はサブカルチャーとはならない。
 では、何故「オタク」や「アキバ系」と呼ばれる人々は、それら「サブカルチャー」に魅せられるのか。
 私は「サブカルチャー」には、「コミュニタス」という、居心地の良いストレス解消装置が潜んでいるのではないかと思うのだ。
 だが、彼らの沈潜する「コミュニタス」とは、一体三つの内のどのコミュニタスなのか?
 彼ら「オタク」達が、一般の人々に気色悪がられたり、軽蔑の眼差しで見られたりしていることは、誰もがご存知のことと思う。しかし、彼らは何故気色悪がられなければならないのか? それは、彼らの沈潜する「コミュニタス」が、「イデオロギー的コミュニタス」であるがためであると思う。
 では、彼らのコミュニタスが、「自然発生的コミュニタス」でもなければ「規範的コミュニタス」でもない理由を考察してみよう。
 まず、「自然発生的コミュニタス」であった場合、それは全人類が同質的になり構造化されていない自由な共同体、でなければならないはずである。しかし、彼らはそれぞれ独自の趣味嗜好にひた走り、他者を省みない。だが、まったく他者を省みないわけではない。自らと同種の趣味嗜好を持つ同士に対しては、彼らは喜びをもって迎え入れる。これは差別的であり、同質的とは言いがたい。だが、ここで留意しておく必要があるのは、彼らは同士を迎える事はするが、同士でない者を否定したりすることもないということである。彼らはそういう者に対しては、無視によって対処する。つまり、彼らに「同等」という階級はあっても、「上位・下位」といった階級は存在しないということである。ここだけを見るのなら、彼らのコミュニタスは「自然発生的コミュニタス」と言えそうだが、しかし、厳然と存在する彼ら「以外」の存在を、彼らは無視によって排除しているため、そうとは言えないのである。
 次に、「規範的コミュニタス」だが、これは一見、当てはまりそうな気がする。「同等」の者だけを認める「自然発生的コミュニタス」的視点から入り、その同士達の間で「コミュニタス」を形成する。その「コミュニタス」は、次第に構造化され、一見「規範的コミュニタス」であるかのように見える。しかし、やはりこれも違うのだ。
 この詳しい理由を説明するには、彼らのコミュニタスが「イデオロギー的コミュニタス」である、ということの説明が必要だろう。
 彼らが沈潜するのは、一種のイデアなのである。彼らの「サブカルチャー」とは何だと定義したか。それは「アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベル」などのことだと定義した。では、それらの「サブカルチャー」に共通するものとは何だろう。それは、全てがイデアを夢想することによって成立するという点である。また文学に限って言うならば、「純文学」は、我々人間の実生活を、よりリアルに描写しようとし、また、その奥に秘められた真理のようなものを暴きたてようとするものである。しかし「ライトノベル」は、逆に人間の実生活を直視せず、彼らの夢想するイデア的な世界を描写することに没頭している。そのことを示すかのように、ライトノベルと言えばファンタジー小説ばかりである。
 彼らは、それぞれが独自のイデアを持ち、それを「サブカルチャー」として表出している。しかしそのイデアには、「規範的コミュニタス」となるべき「規範」が存在しないのだ。彼らは、彼らそれぞれの「イデア」を「規範」としているがために、彼らのコミュニタスは「規範的コミュニタス」とは言い得ない。
 彼らのコミュニタスが「イデオロギー的コミュニタス」であるためには、それが「自然発生的コミュニタス」を実現するための青写真でなければならないわけだが、それは、彼らのイデア全てが、それぞれ実現される、そんな条件が許容されるユートピアを目指しているという点において、彼らのコミュニタスは「自然発生的コミュニタス」の青写真となりうるだろう。
 だが、問題なのは、それが矛盾しないわけにはいかないという点にある。全てのイデアが成立するようなコミュニタスなど、実際には実現不可能だ。故に「イデオロギー的コミュニタス」と呼ばれるわけだが。
更なる問題として、彼らはその「イデオロギー的コミュニタス」から離脱し、構造への再統合をしようとしないという問題がある。彼らが気色悪がられたり、軽蔑の眼差しで見られたりする最大の理由が、これなのではないかと思う。
 彼らは、居心地の良いストレス解消装置である「コミュニタス」に腰を落ち着けたまま、そこから「構造」への復帰をしようとしない。故に、「構造」に住まう一般人からは、異邦人扱いを受け、奇異の眼差しで見られ、自分たちの社会に合わない不適合者として遇することになるのだろう。
「通過儀礼」は人間社会に必要だが、彼らのように「通過」せずに「コミュニタス」に留まってしまう人間がいる。現代は、「居心地の良い」コミュニタスを作りやすい環境が整っているのだろう。それがために、「オタク」などのような「イデオロギー的コミュニタス」の住人と化してしまう人々が出現するようになった。
 この問題を通して、我々は、「通過儀礼」の功罪を検証する必要に迫られているのではないだろうか。「功」とはすなわち、ちゃんと「通過」しさえすれば、「構造」を保つ便利な装置として働いてくれる「コミュニタス」の存在。「罪」とは、居心地が良く、そこに留まってしまうことができるようになった「コミュニタス」の存在。
 いずれにしても、「コミュニタス」を中心において、考えるべきなのではないかと思う。

【参考資料】
・Webサイト「危機的経験に関する人間学的考察」『JARDIN』
(著者ハンドルネーム:RIGHT STUFF、http://www5d.biglobe.ne.jp/~r_s/sotsuronmain.html)
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