地獄の門の殺人者


「面倒臭かったので、殺しました」
 漸く男が口を開いた。しかし、とても長い時間をかけて、それだけのこと――しかも全く持って理解不能なこと――をやっと一言云っただけで、また黙り込んでしまった。取調室の中には、再び沈黙の時が流れる。
 その部屋の真中に置かれた机を挟んで、二人の男が対峙している。一人は老練の刑事、もう一人は、今日、現場を血塗れで、凶器を持ったままうろついている ところを逮捕されたばかりの大量殺人鬼――ではなく、大量殺人犯。彼にはどうも、鬼≠フ名に相応しからぬ、気迫の無い態度ばかりが目に付いていた。い や、彼には文字通り何の気力も残っていないようだった。もう、言葉を吐く気力も無い。そのことは先程漸く出た、この部屋に入ってから初めての彼の一言から も推察されるであろう。
 刑事は大きな溜息を一つ吐き、何度も試みた問いを、また少しばかり変えた言い方で問い直す。
「もう一度訊く。今度こそは、まともな事を云ってくれよ。どうして十三人もの人を殺したんだ? それも、選りにも選って、全員と血縁関係にあるそうじゃないか。その中には両親も入っているんだってな。尊属殺人だぞ。昔だったら即死け……あ、いや……」
 クス、と笑みをこぼしたのは、刑事の向かいに座る殺人犯だった。驚いた刑事は唖然としたまま声も出ない。それは実際無理も無い話で、六時間以上もの間、 一言も言葉を発さず、顔色一つ変えず、全てに対し無反応に座り続けていただけだった彼が、突然、苦笑と思しき笑みをこぼしたのだから。
「なんで笑ったんだ?」
 我を取り戻した刑事は、思わずそう訊いていた。
 殺人犯は――恐らく顔面の筋肉を動かして表情を元に戻すのが億劫だったのであろう――、笑みの残影を浮かべたまま、微かに、笑っているつもりなのかもしれないなと思われる程度の鼻息をフフウゥ、と出すと、ゆっくりと、しかし確実に元の無表情へと戻っていった。
 埒が明かぬ。刑事はそう思って、今度は諦観のこもった溜息を漏らした。そうして彼が、椅子の背凭れへ凭れきるかきらぬかの内に、この取調室の扉をノック する音が室内に響き渡った。どうやらご到着らしい。刑事は皮肉な笑みを浮かべながら、それを愛想笑いに流用しつつ、扉を開けた。

「どうも初めまして、検察官の白鷺静雪(しらさぎしずゆき)と申します。以後お見知りおきを」
 部屋に入る前に、予め胸ポケットから取り出しておいた名詞を一枚差し出しながら、白鷺と名乗った検察官は殺人犯に向かってそう云った。それも幾分陽気さ の感じられる声音で。しかし、そんな登場の仕方にも一向に動ずる気配を見せず、殺人犯は殆ど静止と云って良い状態のままである。
 白鷺は殺人犯の容姿を観察した。痩せ型の体型を持った二十代前半の若い男で、短髪の軽い天然パーマをし、ガンメタル・ブラック・フレームの角張った眼鏡 ――その中には、焦点の定まらぬままの双眸が鈍く存在している。そして真っ直ぐ伸ばされた背筋は、しかしどこか歪な印象を与える。服装はと云えば、黒と灰 と白の三色で構成されたチェック柄を上着に、そして真っ黒無地の長袖のシャツを、袖を上着の袖から少し覗かせながら下に着て、ズボンは灰色のジーンズとい う出で立ちだった。退廃したイメージを受けなくも無く、絶望に打ちのめされた後といったイメージを受けなくも無く、また、指人形(ギニョール)に化けた道 化師(クラウン)の黙劇(パントマイム)を見ているようでもあった。無論、今の彼には気力と言う指は、少しばかりも挿し込まれてはいない。
「君、名前は?」
 白鷺は殺人犯への訊問を始める。だがしかし、殺人犯は以前と同じように殆ど動かなくなっていた。白鷺は可笑しさのための笑みを隠すかのように、握り合わせた両手を口の前にあてがい両肘を机の上に載せる格好になると、話題の矛先を変えた。
「聞いていたよ。外で刑事さんと君との会話をね。まぁ、会話と云っても君は三言しか話していないがね」
 それを聞いた殺人犯の表情に強張りが表れる。白鷺は両手を解き腕組みに変えて、今度は微笑を見せつけるかのようにして云う。
「何故一言ではなく三言なのか、ということを不思議がっているのかな。だって君は、三言喋ったじゃないか。『面倒臭かったので殺しました』という一言と、刑事さんの失言に対する苦笑という一言と、刑事さんを嘲笑する、という一言の三言をね」
 殺人犯の表情の強張りが、幾分緩んだように見えた。警戒する必要性はやはり無いものと思ったらしいことを読み取った白鷺だったが、構わずに続ける。
「君は言葉の定義に関しては思索が進んでいないようだね。ではここで、僕の言葉の定義を披露させていただこうかな。
 まず言葉として表されたものは、何の為に表されたのだろうか。それは、他者に自己の主張を知らしめる為と云って良いだろう。では自己の主張は言葉として 表しさえすれば、必ず他者に通じるものなのだろうか。残念ながらそれには否と答えなければならないだろう。他者はその言葉を見つめ、考える――自己の持つ 記憶情報と照合し、恐らくこの言葉はこういう意味で発せられたのだろう、という臆見に基づいた独断――という行為によって解ったつもりでいることしか出来 ない。そのコミュニケーションの状態が顕著に現れているのが、外国語の翻訳という行為などだね。日本にも幾つもの外国の言葉が輸入され、殆ど日本語化され て使用されている言葉がしばしば見受けられる。だがそういった言葉の中には、原語とは違った意味で使われているものが幾つもあるのは知っているだろう。
 たとえば日本人ではないが、オーストラリアで初めて見た動物について、あれはなんだと現地人に問うた者がいた。それに対し、現地人はこう答えた。『カン ガルー』。質問者はそれを聞いて、その動物の名前が『カンガルー』と言うのだと解釈した。しかし実際は、現地人はその動物を何と言うのかは知らなかったん だ。現地人は自分たちの言葉で、『分からない』と答えただけだった。
 それと同じことだよ。君の発言は一言ではなく三言だと言った理由はね。つまり、君は発言したつもりではなく、ただ笑っただけだったとしても、それ以前の文脈(コンテクスト)から考えて、その《笑い》は《言葉》と比喩し解釈され得るものになっていた、というわけさ」
 白鷺の長広舌が終わる頃には、殺人犯の様子に一つだけ変化が見受けられるようになっていた。彼の眼の焦点が絞られ、少なくともこの空間の何かに興味を持っていることが示されていたのだ。
 その様子を見た白鷺は満足気に微笑すると、今度は組んでいた腕を解いて右手の指の背の部分を顎にあてがう、ロダンの《考える人(*1)》のような格好になって、じっと相手を見据えながら考え込み始めた。
 しかし、少しもしない内に、殺人犯のほうに動きがあった。先程よりもハッキリと、視線の先が固定され、衝撃に打ちのめされたような電撃的な表情の変化が見て取れるようになっているのである。彼は明らかに怯えていた。彼の体は微かな顫動さえも始めているようである。
 その変化は白鷺でさえも予期しなかった事態のようで、彼もまた、その哀れなほど惨めな殺人犯の様子に些か驚いているようであったが、白鷺が《考える人》のポーズをやめて腕組みに戻ると、殺人犯が徐々に落ち着きを取り戻していく様子が見て取れた。
 そして、再度白鷺が試しに《考える人》のポーズをとってみても、もう耐性が付いたのか、殺人犯は何の反応も見せなかった。
「なるほど、《地獄の門(*2)》か。……面白いね」
 白鷺がそう言うと、殺人犯は、微かにビクついたような挙動を起こしたが、それもほんの僅かのことで、冷静さを欠くような状態にはならなかった。しかし、白鷺にはそれだけで十分であった。

     *1……オーギュスト・ロダンの彫刻作品
     *2……オーギュスト・ロダンの彫刻作品。《考える人》はこの彫刻の中の一体を独立させたもの

 訊問を一旦切り上げ、殺人犯を留置場へ帰した白鷺が、取調室から出て行くところを後ろから呼び止める者があった。
「あんた、一体何を解ったつもりでいるんだか知らないが、変な事を言って奴を逃がしてやろうなんて、考えてるんじゃないだろうな?」
 一体何を云い出すのやら、と言った調子で眉を吊り上げながら振り向いた白鷺は、そこに、初め殺人犯の訊問に当たっていた、白鷺と役目を入れ替わった刑事――奈良岡の姿を認めた。彼は白鷺がそうしていたのと同じように、ドアのすぐ近くで二人の会話を聞いていたらしい。
「随分と人聞きの悪い解釈をなさるんですね。しかし、ある意味刑事さんらしい解釈だと言えなくもないですかね」
 それに対し、奈良岡は鼻で小さく嘲笑うと、近くにあったソファに座り、問う。
「さぁて、さっき中で話していた事の内容を、教えてもらおうか。それとも、もう完落ち(*3)したのかな?」
 警察官と検察官は、共同戦線を張る、いわば戦友のような関係にあるので、情報を提供し合うのは当然のことであった。しかし、年配であるとはいえ、このよ うな態度で訊かれることは、誰しも快くは思わないだろう。だが白鷺の場合は違い、彼は寧ろ、そのような偉ぶった人間に対しては、殆ど嘲笑的な態度で愚弄し 返すのが常であった。
「いえいえ、どういたしまして。私なんぞまだまだ新米ですからね。そうそう簡単に完落ちなんて。いやぁ半落ちだって無理ですよ」
 笑顔を振りまきながら云う白鷺に、奈良岡は鼻から荒い息を吐き出すと、無視して同じ質問を繰り返す。
「で、中で何を話していたんだ?」
「聞いていたんじゃなかったんですか?」
「そんなことは関係ない。俺はあんたの説明が聞きたいんだ」
 ニヤリ、と笑みを浮かべると、白鷺は嬉し気に解説を始めた。
「そうですねぇ……まず取り上げるべきなのは、彼の発言でしょう。何事も容疑者自身の発言というものは重要視すべきですからね。ところで、彼が我々に云っ てくれたこととは何でしょう。実際に彼が口や喉の筋肉を酷使して話してくれたのは、《面倒臭かったから殺した》という一言だけでした。それ以外は私の話す ことに対して、極めて自然な反応を示すだけで、全く何かをしようとする意思が感じ取れませんでした。
 このような状況から、私は彼の唯一にして実際の発言である、動機と捉えることのできる《面倒臭かったから殺した》というものに注目してみたんです」
「まさかそれをそのまま信じるだとか言うんじゃないだろうな?」
「まさにその通りなんです」
 奈良岡が茶化したつもりの冗談を、白鷺は笑顔とともにやり返す。
「彼はそれだけのことを云って、力尽きたかのように元の沈黙に戻っています。それは、その一言だけでも、残った気力を振り絞ってでも云う必要性があると考 えたからではないでしょうか――《考える》という行為は、彼に意識がある限りしないわけにはいかないものですからね。そして更に、その後の彼の態度を併せ て考えてみると、その蓋然性は高いものだという事が解ってくるんです。
 彼は、あなたの失言に対して笑いました。それは嘲笑と云っても良いものでしょう。あなたが容疑者に向かって、『死刑になるぞ』という脅し文句とも取られ 得る言葉を云いそうになって、なんとか口を滑らさずに済んだ、その様子を見て笑ったんです。これが何を意味するか解りますか? 言い換えましょうか。彼は 嘲笑しかしなかった。つまり、この時の彼には喋ってまで刑事さんを小馬鹿にするような力は無いらしい、ということが推測できるんです。次いで、刑事さんが その反応に驚き、何故笑ったのかということを訊かれましたよね。それに対して彼は、何も云わずにただ段々と、作られた表情を元の位置へ戻す――無表情への バネのような引き戻す力に身を任せるだけでした。
 これらはあなたとの会話――といっても至極一方的なものでしたが――の中での彼の反応です。そこまでは、私は部屋の外でコッソリと観察させていただいて いましたが、いよいよ私の出番であろうと思い、ハイタッチの交代劇を、彼奴(きゃつ)の目の前で繰り広げてやったというわけです」
 白鷺は最後の科白を、満面の笑みを湛えながら冗談交じりに云ったが、奈良岡は最初からの仏頂面を崩さずにそれを無視し、代わりに問いを投げかける。
「それで。あんたが俺に代わって訊問をした結果はどうだったんだ。意味の解らんことを一人でほざいていたようだが?」
「そう焦らないでください。物事は筋道立ててからのほうが解りやすいんですから」
「俺にはゴチャゴチャ云ってる暇があったら、さっさと自分の考えを吐き出しちまった方が捜査の為だと思うがね」
「そうとも限らないと思いますよ。現に彼には時間を与えることによって、考えを吐き出してもらうつもりですから」
 白鷺は何気ない風にそう云ったが、それは壮年の刑事に少なからず打撃的な影響を与えたらしかった。
「何? それはどういうことだ。まさか、何日間か放っておけば勝手に自白するとでもいうのか?」
 奈良岡の慌てた様子が可笑しかったが、それが真剣な様子でもあったので、白鷺は漏れそうになる笑いを極力抑えて手を振り振り、否定した。
「いえいえ。彼は真面目な人間のようですから、何日と言わず、上手くいけば明日には、何もかも綺麗さっぱり自白してくれるでしょう」
 今度は、奈良岡は自分の慌てぶりを猛省したのか、相手を小馬鹿にした調子を含めて反駁する。
「はんっ! 何なんだ。あんたは一体、奴との会話で何を見つけたっていうんだ? 奴は何も話さなかったってのに」
「いえ、違いますよ。彼は雄弁に語ってくれました。尤も、《彼》という呼び名は不適切かもしれませんがね」
 その後、白鷺は奈良岡に、容疑者は明日自分が訊問をするまでは誰も刺激を与えないように留置場にそっとしておいてくれ、ということを頼むと、颯爽と、しかしゆったりとしたスピードで、警察署の、妙に明るく日光を照り返す廊下の上を歩き去っていった。

     *3……容疑者が自分の容疑を完全に認める事。警察の隠語

 翌日、白鷺の頼み通りに一晩中留置場で思索する時間を与えられた殺人犯が、白鷺の前に姿を現した時には、彼の様子は明らかに別人の態であった。取調室へ と連れてきた若い刑事もその変化には気づき、少なからぬ驚きを感じており、また奈良岡も同様であった。しかし、白鷺は寧ろ予想通りで良かった、とでも言い たげな満足気な笑みを浮かべながら、彼と向かい合わせの席に座した。
「昨日、美術館へ行ってきてね。見てきたよ、《地獄の門》」
 と、白鷺の第一声。
「……そうですか」
 それに返すは、殺人犯。白鷺は笑みを満面に拡げる。
「さて。それではまず、名前を教えてもらえるかな?」
 白鷺は両手を握り合わせ肘を机に乗せる体勢になって、本腰を入れたらしく話し始める。
「そんなもの、意味無いでしょう」
 その殺人犯の答えに白鷺は、嬉しくて仕様がない、というように身悶えしながら背をそらせ、微笑んだ。
「なるほどなるほど。君はそういう主義なわけか」
「あなたはどうなんです、……白鷺さん?」
「おやおや、名前に意味がないという主義を持つ人間に、名前を覚えてもらえていたとは光栄だなぁ」
 云われた殺人犯は、皮肉な笑みをこぼした後、返す。その言葉の内容もまた皮肉が込められていた。
「何せ地獄の門に住んでるものですから」
「なるほどね」
 白鷺は即答した。
「その御様子じゃ、既にその意味も理解済み、ですか?」
「そう思うかい?」
「フフ、思わなければこれほどまでに喋らない。お互い、そう思ってるんじゃないですかね」
「ハハハ、面白いね」
「まったくです」
 まったく、この二人の意気投合振りには驚かされる。そう思っていたのは奈良岡であった。彼はまた、僅かに開かれたドアの隙間から、その取調室の中の様子を覗きつつ聞き耳を立てているのである。と言って、今回は白鷺に断りをいれてのことだが。
「名前など意味がない、か。」
 そう白鷺が改めて云った後、暫く沈黙が続いた。その間、白鷺は改めて殺人犯の様子を観察してみることにした。
 彼は前回の様な、だらけきった焦点を合わせる気力も無いというような様子は微塵も見せず、背筋の歪な感じは消し得てはいないものの、その他の点では至って礼儀が良いと云っても過言ではない姿勢、態度を保っている。
「それはつまり、名辞の相対性に気づいた、名辞の絶対性に失望したと、そういうことかな」
「よくお解りのようで」
 微笑と共に殺人犯は答える。まるで同類を得たことを祝すかのように、彼は饒舌になっていた。
「どうやら大体のところは、僕の理解が届いているようだね。だけど是非とも君の口から君の考えを聞かせて欲しいんだがねぇ。お願いできるかな?」
 殺人犯は、予想していたその言葉を改めて吟味した後に、
「わかりました。いいでしょう。あなたになら話す価値があるかもしれない。しかし一つお願いがあります。私が話している間、口を挟まないでもらいたいんで す。折角私が気力を振り絞って話すという労働を行っているのですから、それを中断されて再始動しなくてはならないはめに陥らせないでほしいんです。疲れま すから」
 と云って白鷺の了解を得ると、彼は自らの持論――殺人哲学を披露し始めた。

「僕が何故、自らの家族を殺したのかということを理解してもらうには、僕が否定主義者だということを説明しなければならないでしょうね。ですが勘違いして ほしくないのですが、否定主義者と云ってもニヒリストではないということです――御存知かとは思いますが、ニヒリズムは日本語では、虚無主義とも否定主義 とも訳されていますからね。否定主義とニヒリズムは全く別物です。あなたは先程、私が感じた名辞の絶対性に対する失望を指摘しましたが、それとは関係無し に、この違いは明らかなものとして残ります。つまり、《否定》という言葉は、ある対象を《否(いな)》と、《それは違う》と《定義》することですが、ニヒ リズム、あるいは虚無主義というものは、その存在自体を認めないものです。否定主義が、まず対象の存在を認めているという事は、《それは違う》の《それ》 という言葉を見れば明らかでしょう。その言葉は《それ》という対象の存在を認めてしまっている言葉ですからね。ですからニヒリストは、我々が生きているこ の世界そのものを滅ぼそうなどといった、建設的な破壊活動をするわけですね。一応言及しておきますが、わざわざ僕が破壊活動も建設的であると修飾したこと についてですが、何故ならそれも一つの行為だからです。何かを人間が行って建設的にならないものなどありえません。
 このことは、ケスラー・シンドロームを御存知であればすぐに理解できることでしょう。
 ケスラー・シンドロームとは、宇宙ゴミ(スペース・デブリ)についての警告として掲げられたものですが、つまり、引力の影響で加速度のついた宇宙ゴミ は、他の宇宙空間に漂う宇宙ゴミに衝突し、破砕する。それによって一方的、またはお互いに砕け散って生み出された破片が新たな宇宙ゴミとして宇宙空間を疾 駆することになる。これは明らかなる破壊活動でありながら、また、建設的活動でもあることは明々白々としています。この現象をケスラー・シンドロームと云 い、提唱者ケスラーが警告したかった事というのは、その現象によって地球の引力圏を漂う宇宙ゴミが増え、人類の宇宙進出が不可能になるほどの状態になって しまうという事ですが、これを建設的でないと誰が云えます? それによって宇宙進出ができなくなるということは、選択肢を減らす非建設的なことではありま せん。寧ろ選択肢は増えると言わなければならない。つまり、《宇宙ゴミの層を排除した後に宇宙へ進出する》という選択肢の増加ですよ。それをクリアするこ とによって、人類は新たな技術を生み出しているかもしれない。
 少し話が逸れましたが、つまりニヒリストは建設的な行為という、彼らが敵視しているつもりになっている、俗人どもがやっているのと同じ事をやっているにすぎないということです。
 しかし、僕はそうではない。僕はニヒリストではなく、否定主義者なんです。先述したように、否定主義とは、まず対象を認めた後に否定する主義思想のこと ですが、《対象を認める》と云うと、そんなに否定的な度が酷くないと思われるかもしれませんが、それは《認める》という行為は、そういう度合には全く関係 が無いということを理解していないが故の誤解です。《認める》という行為は、会話における相手の言葉の《理解》というものと似たようなものです。つまり、 相手の云っている事をまず呑み込む事――正しく意味を汲み取るということです。それをしなければ、その相手の言説に対して的確な正しい反論を出すことは不 可能です。テーゼを理解し、そしてアンチ・テーゼを生み出す。それが議論における最も基本的な理論(セオリー)でしょう。ですから、私は《この世界》とい うテーゼに対してアンチ・テーゼを唱えるのです。
 つまり、《この世界》というテーゼを《内世界》とし、それに対するアンチ・テーゼを《外世界》として定義するということ。
《内世界》に居たのでは真実は見つけられないと私は考えたのです。何事も客観的、多面的に観察することによって初めて、対象を完全に知ることができるので すから。《内世界》に居たのではそれができない。それをするためには《外世界人》にならなくてはいけない。しかし、それもまたできないのです。何故なら、 《外世界人》になるには《外世界》に入らなくてはいけません。しかし、たとえ自らの存在する《内世界》から境界を越え、《外世界》として認識していた世界 に入れたとしても、その途端、そこは《自らの存在する世界》――《内世界》へと変貌してしまうのです。つまり、《内世界》がある以上《外世界人》にはなり えない。更に突き詰めて言えば、真実を知ることなど絶対に不可能だというわけです。
 こうして《外世界》を措定することにより、私はこの世界の不確実性を見出したのです」

 ここで暫くの沈黙が生まれた。何か意見は無いのか、とでも言いたげな表情を殺人犯がしているのに気づいた白鷺は、徐に口を開く。
「少し、意見を提出してもよろしいかな?」
「どうぞ」
 その殺人犯の答えから、彼の話には、やはり一段落が着いていたことが察せられた。
「君は自らの理論内において、初歩的な自己矛盾を来たしている」
 そう云う白鷺の口調には、大きな呆れと小さな嘲り、そして、それに伴う失望の念がこもっていた。
「すなわち、君の云うとおりなら、《破壊活動もまた建設的な行為》らしいが、そうした場合、非建設的な、破壊的活動の存在の余地が無くなるんじゃないか い。それなのに君は、《破壊活動もまた――》と、《破壊活動》という言葉を使っている――存在を認めている。なるほど、君はニヒリストではなく否定主義者 らしい。だったらば、まず対象の存在を認めた後でしか否定は出来ないわけだ。しかし君はニヒリズムの定義において《破壊活動》の存在を認めている。これは つまり、君の云う否定主義になるはずだ。だが君は、それはニヒリズムであり否定主義ではないと云う。こうして《君のニヒリズムの定義》が《君の否定主義の 定義》によって打ち消されたということは、どちらの定義も間違っていたということの証明となり、君の否定主義思想は崩壊する、というわけだ。
 そうやって考えれば、長々と《内世界》、《外世界》云々と云っていたあの理論(りろん)も、やはりニヒリズムに過ぎなかったということが解るだろう。何 故なら、君が完成したと思っていた虚無主義(ニヒリズム)と否定主義の分類が崩れ、二つが統合(ジンテーゼ)されることにより、その理論はニヒリズムであ るという結論が導き出されるからだが、つまるところ、ニヒリズムとは君が定義した否定主義のことなわけだね」

 こうして、いともあっさりと己の思想を打ち砕かれた殺人犯であったが――覗き見る奈良岡には不思議でならなかったのだが――まったくアイデンティティの揺らぎを感じさせることなく、平静な態度で座り続けていたのであった。
 その様子を見て、白鷺が意見を述べる。
「……やはり君は、本能によって殺したと云うわけか」
「フフフ。ええ、否定主義思想など、火を熾すための、一本の薪のようなものですよ」
「火か……。しかし火は人間が人間となる第一歩とも云える自我的行為だとは思わないのかい?」
「いえいえ、人間となる第一歩、つまりそれは、人間となる前の、最後の純本能的行為と云わなければならないでしょう。弓作りや釣り針作りもそれに同じです。しかし、ましてや自我的行為だなどと……フフ……笑えるお話ですね」
「……まったく。《地獄の門の住人》が考えそうなことだねぇ」
「……どういうことです? 興味深そうな言葉ですね。是非とも詳しくお聞かせ願いたいんですが」
「いいとも。今度はこちらが注文にお答えしよう」
 そう云って、白鷺は再び、殺人犯の思想打破に乗り出した。

「今の君は、よく自我によって統御されている状態だと云えるだろう。つまり、会話が出来ている。だが、君が大量殺戮を行ったと思われる(まだ確証が無いか らこういう言い方しか出来ないんだが)時は、君が云った《面倒臭かったから殺した》という言葉から推測するに、君は自我によって本能を抑えつけるのが億劫 になり、本能のおもむくままに付近に居た人達を殺していった、とでも云うわけなのだろう。そこまで自我の力が弱まった要因が、先程僕が打ち崩した君の否定 主義思想なわけだ。だが君は、それを失った今でも、泰然自若としている。これは何故か? 共通言語を失ったバベルの塔は崩壊しないのか? いや、その建造 物は崩壊した。だが、崩壊したからといって別にどうということはない。それが今の君の状態だろう。つまり、自分の家――持論が打ち崩されたからと云って、 その事を気にしなければ良い。壊れたなら壊れたで、ああそうですかで済ます。それが出来るのは、その時の君が純本能的に動いていたからであり、《地獄の門 の住人》である君は、どうということもなく今を平然と過ごせるわけだ。
 では、《地獄の門》とは何なのか。そこに住むという事はどういう事なのか。
 それは自我と本能の葛藤の場、とでも云えるかな。
 普通に、哲学や宗教など考えたこともない俗的な生活を過ごしている人間は、当然ながら《地獄の門の住人》ではない。だが彼らはそれに成る可能性を秘めて いる。というか、彼らが成るものが《地獄の門の住人》であり、そうなる前の彼らの中で、自らの住む世界を定義しようとするある種の人間が見出す形而上学、 それが《地獄の門》だ。そしてそれを具象化したものとして捉えることの出来るもの、それがオーギュスト・ロダンの彫刻作品――《地獄の門》ということにな る。あれは門の随所に人型の彫刻が施されている作品だが、その中にはあの《考える人》もあり、まさしく葛藤に苦しむ存在であるように見える。
 先程、《地獄の門》とはある種の人間が見出す形而上学だと云ったが、それはつまりこういう事だ。門とは一般的には潜(くぐ)り抜ける物であって、中に留 まる物ではない。門とは、境界だ。ある世界Aと、それとは違う世界Bを繋ぐ《間》だ。通常はその《間》で立ち止まったりせずに、潜るなら潜る、潜らないな ら潜らないでおくものだが、ある種の人間はそれができなくなるわけだ。つまり、その中に留まって考え込む。そうせざるをえないことになってしまった人間、 彼らが《地獄の門の住人》となる。
 君もその性質(たち)だろう? そうして君は、葛藤に苛まれ自我の統御力が弱まったところを、以前から持っていた否定主義思想に火が点き、前々から失望していた家族たちを、破壊衝動の赴くままに惨殺した……。
《面倒臭かったので、殺しました》か……。
 なるほど、云い得て妙だねぇ。核心だけを云ってくれたわけだ。
 さてと、君が何故血縁者ばかりを大量に殺害したのか、という動機は、ざっとこんなもので良いかな?」

「いやぁ、まったく素晴らしい読みだ」
 殺人犯は、思わず笑みを交えた拍手を送っていたが、すぐに我に返り、いつの間にか曲がっていた背筋を伸ばして評価を下した。
「全く持って御指摘通りですよ。白鷺さんは私の行った殺人の動機を解明したわけだ」
 初めてこの取調室へ入った時とは大違いの、陽気な表情と口調で殺人犯は云った。それに対して白鷺は欠伸を一つした後、もうこれで仕事は済んだから帰ろうと腰を上げかけていたのだが、ふと思い出したように、
「ああ、そういえば」
 と云って、再び腰を落ち着ける。
「君は、ドストエフスキーの『罪と罰』は読んだことがあるかい?」
 突然の脈絡を感じられない質問に、殺人犯は多少怯んだようだったが、それでも陽気さの残った口調で答えた。
「え、ええ、ありますよ、読んだこと。随分昔ですがね……内容は大体なら覚えてますが、それが何か?」
「ラスコーリニコフ(*4)は、何故質屋の老婆を殺すことになったか解るかい? 君の持つような、下らない殺人哲学があったからさ。哲学は、所詮宗教と同 じような効果しか持ち得ない。それはつまり、理由の後付みたいなものかな。簡単に云えば言い訳。言い訳を難しい言葉で塗り固めてそれらしく装わせる――そ の一つを団体が使って同類を慰めあうか、それとも自らの作り出した言い訳で自らを慰めるか、宗教と哲学にはその程度の違いしか無いんじゃないかと思うよ。
 僕は昔、学生の頃に、『宗教か哲学か』という題の短い論文を書いたことがあるがね、その時の僕は今の君のように宗教を毛嫌いし、俗人への感情に至っては 糞喰らえと思っていたぐらいだ。だがね、哲学もある程度思索が進んだところで反省してみるとね、やはり哲学も、所詮宗教と大差ないということに気づくんだ よ。この世が俗世である以上、その俗世を快適且つ的確に生きるには、俗的に生きるのが一番だという当然の事に気づくんだ。だが勘違いしてはいけないのは、 重要なのは《俗的に生きることが一番だということに気づくこと》ではなく、《俗的に生きること》なんだよ。つまり、一度宗教なり哲学なりに身を染めた者 は、恐らく人生を謳歌する事は最早不可能だろう。
 僕もその性質(たち)さ。だが僕は満足しているよ。それによって絶望もしているがね。まぁ、そのお陰で今の僕があるわけで、そういう思索を行えなかったから、今の君があるわけだ。
 反省をせずに、ただ自らの思想に溺れて突っ走った結果が今の君の状態というわけだよ。哲学も、一歩間違えれば宗教と同じように犯罪の火種となりかねない代物だからね、注意しなければならない。まぁ、わかりやすい予防策としては、有言不行を心がけることだね。
 解ったら、殺人なんかしちゃいかんよ?」

     *4……ドストエフスキーの小説作品『罪と罰』の主人公


〈了〉


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