変質者


 十一月も中旬。高校二年生である僕にとっては、ある意味ここからが踏ん張りどころといったところだ。本当なら一学期からにでも勉強に力を入れ始めるべきだったのだが、どうもそんな気が起こらなかった。それは今もあまり変わらず、大して勉強はしていないのだが。
 今日は土曜日。水曜日と土曜日は塾へ行く日で、電車に乗り四日市まで行かなくてはならない。それは良い。四日市には中々良い本屋がある。地元には良い本 屋がないため読書好きの僕としては四日市へ行けるのは嬉しいぐらいなのだ。塾自体もそれほど苦痛ではない。一対一のマンツーマン指導というやつは苦手だ が、僕の通っている塾はそういうものではなく、学校の授業のような形式で行われている。しかもクラス分けが高校別なので、尚更学校のような気分になる。
 僕は今、その塾へ向かうための電車に乗り、本を読みながら揺られている。本とは勿論教科書や参考書などではなく、小説である。それも推理小説。
 そう、僕は推理小説が好きだ。それは僕の人生の伴侶と言っても過言ではないくらいに、僕は推理小説が好きだ。というよりも本が好きなのだ。その中でも推 理小説という本が好きなのだ。いや、愛していると言っても良い。彼女が傷つくと、僕の心も傷つく。彼女が折れ曲がったりすると、僕の心も折れ曲がる。
 彼女が綺麗に並んでいるのを見ると、僕は幸せな気分になる。だから僕は本を集める。推理小説を集める。特にハードカバーが良い。あれは装丁が綺麗なものが多い。それに丈夫に出来ているから、愛しい彼女が傷つく心配も、少しは解消できる。
 僕にはたくさんの"彼女"がいる。今までに裏切られた事は一度も無い。少しガッカリしたり、期待はずれだったりする事ぐらいはあるが、それでも装丁で充 分補われていたり、そうでなくても小説を嫌いになる事はありえない。あれほど美しい彼女はいない。彼女は決して裏切らない。現実の人間とは大違いだ。人間 は自分の事しか考えない自己中心的な人間が、最近次第に増えつつある。そんな気狂いはこの世から消え去るべきだ。

 電車内に四日市駅に入る直前のアナウンスが流れる。そこで僕は、それまで読んでいた小説を閉じ、リュックの中にしまった。このリュックは塾専用のリュックで、黒い色をしている何の変哲も無いただのリュックである。
 降り立ったホームには、向かい側に元来た湯ノ山方面へ向かう電車が待機中で、中には既に何人もの人が乗り込んでいた。
 今日は雲行きが怪しかったので傘を持ってきていた。傘と行っても小さな紺色の百円の傘で、以前大きな傘を使っていた頃のように杖のように突いて歩く事が 出来ないのがもどかしい。大きな傘は高校に持っていった帰りに誰かに盗まれてしまった。自己中心的な人間が増えてきている兆候が、こんな田舎でも見られる ようになってきているのだ。
 傘を突いて歩く事が出来ないので、仕方なく振り子のように振り回しながら歩いていき、僕は駅構内のトイレへと向かった。いつも塾へ行くため電車でやって くると、四日市駅へ到着する頃にちょうどトイレへ行きたくなるのだった。最近は寒くなってきているため、駅までの親の車の中でも電車内でも暖房が効いてい る。そのため外との温度差が激しい。そういう状況に置かれるとトイレに行きたくなるのが僕の体質らしかった。
 トイレの出入り口で、トイレから出てきたばかりの、黒い服を着てでっぷりと太った、細目の中背の若い男と目が合った――若いと言っても少なくとも大学生ぐらいだった。別に他人と目が合うなど大したことではないので、僕は気にせずにトイレへ入った。
 すると――
 驚いた事に、さっき出て行ったはずの男が、黒服細目中背デブ男が、僕のすぐ右隣の小便器に陣を取ったではないか。
 偶然にも目を合わせていたお陰でか、僕はその事に気付いた。何故だ? さっき出て行った、つまり用を足した筈の男が、どうしてすぐにまたトイレへ入ってくるのか。しかも、また小便器の前に用を足す姿勢になっているのか。
 その答えはすぐに分かった。
 見ている。
 見ているのだ。
 男は僕の方をジロジロと見ている。それも僕の便器と接している部分の方をジロジロと……
(ヤバイ!)
 僕はそのことに気付くと、すぐにそう思った。
(変質者だ! それもゲイ、いや、ホモだ!)
 鼓動が高鳴る。無論、見られていることに興奮して、というわけではない。それに見えてもいない筈だ。僕は殆どピッタリ便器にくっついている。恥ずかしさ と恐怖から鼓動が高鳴っている。奴の視線のせいで、僕はリラックスできず、全然用が足せなかった。膀胱には溜まっているのに出すことが出来ない。もどかし さが募る。それと共に恐怖と恥ずかしさも高まってくる。心臓がバクバクと言っているのが分かる。
 何故だ。何故僕なんだ?
 僕は基本的に人の顔というのを見ないタイプで、友達と話す時も目をあわすことは少ない。それでも偶然目の合った男。まさか、その偶然によって男は僕を標的としたのだろうか。もしそうだったとしたら、全くついていない。
 今日は土曜日。水曜日よりも電車の到着時間が十分ほど遅い。それにより当然の如く行動予定時間も十分早まることになる。この後の行動予定は、四日市駅を 出てすぐのところにある商店街に入り、その中の本屋で、じっくり本を眺めて、買うか買わないか、何を買うか、ということを考え、その思考を堪能する。その 時間が、ただでさえ十分も短縮させられているというのに、この変質者の登場のせいで更に遅れることになってしまう。僕は無性に腹が立った――

 ――僕は、最近寒くなってきていたので手袋を嵌めていて、そのお陰でこの後は手を洗わなくても良いな、などということを呑気に考えていた。
水洗式のトイレから立ち上がる。小便器では出来ないので、仕方無しに個室に入ることにしたのだ。
「うわぁ?!」
 聞き慣れぬ男の叫び声。何やら外が騒がしくなってきた。僕はズボンのベルトを嵌め終わると、その只中に突入する事になった。
 目の前には、先ほどの黒服細目中背デブ男が、腹から大量の血を流してうつ伏せに倒れていた。肥えた死体の近くには、どこの家庭にもありそうな果物ナイフ が落ちていた。奴の右手は、僕がさっきまで入っていた個室のドアのほうに向けられていたらしく、僕が個室から出てくる時、男の右手がドアに押されて移動し た。ドアには彼の手によってつけられたらしい血痕がベットリと付いていた。
 周りには五人ほどの野次馬が既に集まっていて、その中には駅員の姿も見受けられた。警察や救急車の手配は、僕が個室へ入っている頃にすませてしまってい たので、彼らはただ呆然と、現場保存と証言の為に突っ立っている。僕もその群れに加わったが、僕だけは彼らと違い、男の死体を見つめていた。そして、思わ ず笑みをこぼしていた。時刻は午後七時三十分過ぎ。既に予定を五分程オーバーしている。

 午後八時半。漸く僕達発見者は警察から解放された。事情聴取を受けたのは初めてだった。もっと時間がかかるのかと思っていたが、それほど引き止められることも無く解放ということになった。僕も簡単な証言をした。それは次のようなものだった。
「はい、四日市のE塾へ通ってます。そこへ行く途中に、ここのトイレへ寄りました。それで、ちょうど用を済ませたところで男の人の叫び声が聞こえまして、それで個室から出てくると」
 そこで刑事が遮って
「個室というのは、どの個室かな?」
「あそこです」
 そう言って僕は血で汚された扉の取り付けられた個室を指差した。
「あそこの個室でした。血が付いているので確実です」
「ほう、君の言うとおり血が付いているね。何故だと思う?」
 と刑事が訊いてきた。そんなことも分からないのか、と言いたかったがやめておいた。彼もそれぐらいのことは分かっているのだろう。分かっていて、敢えて訊いてきているのだ。何故なら、その事実がある可能性を示唆するものだから。
 僕は一般的な意見を答えた。
「それは、被害者が血のついた手で扉を触ったからだと思います」
「うん。きっとそうだろうね。しかし、その中に入っていた筈の君は……」
 その続きは分かっている。どうして被害者が扉を触れたときの音に気付かなかったのか、と言いたいのだ。それ以前に、僕は個室に入っている頃には何も異変に気付かなかったと答えてあった。
「気付きませんでした。でも、多分……」
「多分、なんだね?」
 刑事が促す。
「流していた時に、被害者が触れるなり叩くなりしたんではないかと思うんです。大のほうのレバーを引いたので、かなり大きな音が出ましたから、その時だったら気付かなくても不思議じゃありませんよ」
「ああ、そうか。それがあったな。いや疑ってすまなかった」
「え、疑ってたんですか?」
 そう言って僕はニヤリと笑い、刑事の顔を見た。刑事は決まり悪そうに咳払いをして、
「ええ、皆さん。これで一通り尋問は終わりました。どうやらこの中に犯人はいそうにありません。が、しかし、念のため、捜査の過程上取るべきことなので皆 さんには快くご了承いただけるものと思いますが、住所と電話番号、御名前のほうを、こちらのほうへ控えさせていただきます」
 強制ではないというような言い方をしておいて、最後の方は結局強制的な、威圧的な口調に変わってそう言う刑事。
 僕は言われたとおりにして、その後解放された。

 その後二週間が経過したが、あの事件が捜査されている様子すらない。ニュースはよく見るほうではないが、そういうようなニュースを見たという噂は耳にし ない。地元に近い四日市で起こったことなので、田舎人である家族や友達が、少しもそのことで噂しないと言うのは考えにくい事なのだ。それがないのだから ニュースでは報道されていないのだろう。迷宮入りにでもなったか。
 あの事件の後、解放されてからでは塾へ行っても三十分弱しか出来なかっただろうし、途中から入るというのも嫌だったので、塾へ行っているはずの九時まで は気に入りの本屋で本を眺めて過ごしていた。結果オーライとはこういうことを言うのだろうか。この事は家族にも話していない。塾の方も、連絡せずに欠席し ても何も言ってこないような塾なので全然心配は無かった。
 ある日の夕方、食卓でニュースを見ていると母親が話しかけてきた。
「なあ、ここにあった果物ナイフ知らん?」
 僕は知らないと答えておいた。

(了)


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