殺虫事件


 プロローグ

 人が死んでいる。痩せた男だ。これ――もう死んでいるのだから、これはただの肉塊。『これ』と呼んでもいいだろう――は、もう完全に冷えて固まっている。
 魂などありはしない。間違ってもこの辺を未だに、無念のあまり漂っているなどと言う事はありえない。そんなことは愚か者の考える事だ。それだと言うの に、幽霊を信じる人間は数多い。幽霊――それは、人である場合が大多数である。それは人間が、人間の命は他の動物よりも尊重すべきものだと考えているせい だろう。
 人間は昆虫を中心に、人間以外の他種の動物を簡単に殺す。特に昆虫の殺されようは凄まじい。
 そうして殺しているというのに、昆虫達が無念のあまり魂だけが成仏できずに漂っている、などと考える人間はそうはいない。何故だろうか。それは恐らく、昆虫の死が、あまりにも簡単に人間に操れるからだろう。
 人間と昆虫の力の差は歴然としている。人間の握力をもってすれば、昆虫など、簡単に捻り潰せてしまう。そうして殺せてしまう。
 昆虫が死ぬ時。昆虫は人間のように悲鳴をあげたりはしない。命乞いをしたりはしない。いや、正しくはどれも出来ないのだ。知能が人間ほど発達していないから。だから人間は、迷い無く昆虫を殺せる。
 昆虫はただ、本能的に逃げ惑うだけ。本能で殺気を感じ取り、逃げ惑う。だが、人間の移動範囲と昆虫の移動範囲もまた、歴然としたものである。昆虫が上手 く隠れる事が出来たなら、助かる可能性もあるだろう。昆虫が助かる方法は、『人間自身が作りだした隙間に入って隠れる事』『勇敢に立ち向かい、人間に飛び 掛り怯ませた隙に逃げ出す事』このどちらかだろう。いずれも人間の見せた『隙』を見つけて『逃げる』事でしか彼らは助かる方法は無い。何故なら、力の差が 歴然としているから。
 昆虫が人間を殺す事は滅多に無い。だが、人間は時折、毒をもった虫に刺されて死に至る場合がある。だが、全ての昆虫が毒をもっているわけでもないし、例え持っていても、必ずその毒で殺せるとは限らない。ましてや、逆に殺される事だってあるのだ。
 いや……殺される事の方が多い。現にまた、痩せた男の死体――肉塊の近くに、カメムシが一匹死んでいる。肉塊が人間であった頃、その人間は一匹のカメムシを見つけ、ティッシュを大量に抜き取ってそれで潰し殺した。圧殺だ。
 そして――次に男が死んだ。男は肉塊になった。

 1.現場

 制服警官。私服警官。検視官……様々な警察官達が、男の死んでいた現場で、物々しく捜査をしている。
「庄山警部。死体の運搬、終わりました。検視の報告は、追って連絡するとの事ですが、他殺である事は誰の目にも明らかだろう、とのことです」
 二十代後半の私服刑事が、急ぎ足でやって来、一人の中年の、中肉中背の男の前に立ち、そう報告した。
「ああ、他殺だってことぐらいは誰にも聞かなくたって分かる事だ。どうやって殺されたのか、それが問題だ」
 そう言って庄山警部は、ロダンの『考える人』のように右手を顎に当てながら考え込みだした。
 何故彼がそのように考え込まねばならないのか。それは、男の死に様が異様だったからだ。男の体には、穴が穿たれていた。それも五つや六つなどではない、 十数箇所もの多数の穴があるのだ。それは一見、銃で撃たれたようでもあり、何か尖ったアイスピックのような物で刺されたような穴のようでもあった。詳しい 事は検視の報告を待たねばならない。
 待てばいずれ分かるだろう。庄山は、そうは考えるものの、やはり気になっていた。

 2.近所

「……では、昨日の午後四時から六時の間、隣家の方では、怪しい物音か何か、気付いた事はありませんでしたか?」
「ええと、四時から六時ですか……確か、昨日は何もする事が無くて、庭でガーデニングをしていました。午後三時から、祖母が散歩から帰って来る午後六時十分過ぎぐらいまで、ずっと縁側か庭にいましたけど、何も聞こえませんでしたよ」
 被害者の死亡推定時刻に、怪しい物音を聞かなかったか。何度も同じ質問を繰り返し、近所の聞き込みを済ませた惣畑警部補――さきほど現場で庄山警部に報告をしていた刑事――は、一旦署に戻って報告をすることにした。
 ある真夏の事件捜査。暑い日差しを浴びつつ、彼はA県警察署まで愛車の黒いスカイラインGT−Rをかっ飛ばした。

 3.A県警察署

 A県警察署内、第一会議室――『N市仲野靖殺人事件捜査本部』――そう墨で書かれた大きな紙が、その部屋の扉の横に貼り付けられている。
 中には既に数人の捜査官がいた。その中には庄山警部の姿もあった。
「ん、惣畑か……聞き込みは終わったのか?」
 庄山警部が悶々とした雰囲気を振りまきながら、まずそう訊いた。そして惣畑警部補は、聞き込みの結果を報告した。
「そうか、不振な物音は聞かなかったと、どこの家の人間もそう証言したんだな? ふむ……となると、刺殺しか無いか……」
 庄山がそう呟くのを聞きながら、惣畑はある事を思い出し、庄山が黙るのを待ってそれを訊いた。
「あの、検視の結果報告は来たんでしょうか?」
「……ん、ああ、あれは――」
 庄山が答えようとした、その時――捜査本部としている第一会議室の扉が開かれ、ノンフレームの眼鏡をかけた、惣畑警部補よりも年下に見える私服警官が現れた。
「検視結果、出来上がりました」
 ノンフレーム眼鏡の刑事はそう言い、左手に持ったファイルを上にあげて左右に振って示す。
「おお、そうか。では読み上げてくれ、石田巡査」
 そう言われて石田巡査は、はい、と返事をしてファイルを開き、読み始めようと一瞬口を開いたが、眼鏡のズレが気になって一度掛けなおし、気を取り直して話し始めた。
「私の言葉に変えさせていただきますが、一言で言えば、犯行に使われた凶器は――不明です」
 不明です、と言うまでの間に、わざとらしく焦らしの間を置いてそう言った。その言葉を聞き、その場にいた刑事で、驚かなかったのは事前に検視結果を聞い ていた石田巡査ただ一人であった。ある人は口をぽかんと開けたまま放心状態に、またある人は、驚嘆の声をあげて固まってしまったりして、少しの間、そこは 沈黙のみが支配していた。
「不明だと!?」
 庄山のその一声をきっかけに、その場にどよめきが発生した。皆口々に、ありえない、そんな馬鹿な、などと言い合っている。
「ああ、すみません。私の話し方がいけませんでした。私なりに簡潔にまとめようと思ったのですが……申し訳ありません。
 ファイルには書かれていないのですが、検視官にこのファイルを渡された時の言葉をそのまま引用させていただきます。『まだ細かな検査が出来ていない。大 分長い間、見当外れの事ばかり考えていたのか、詳しい検視が出来ていない。このファイルに書かれているのは、捜査本部でうずうずしている刑事達に送る、せ めてもの気休めだ。すまないがもう少し時間が欲しいところだな』との事でした」
 それを聞き安堵の溜息を漏らす刑事が大半だった。現代の法医学を持ってして、凶器が不明、などという結果に終わる筈がない。そこにいた刑事達は皆、そのように思っていたのだ。
「まったく、驚かせてくれるな、石田巡査」
 快活に笑ってそう言う庄山達に、石田は何度も頭を下げて謝っていた。
 そんな中、驚嘆と安堵をさせられた刑事の一人、惣畑警部補はニコリともせず考えていた。
(いくら勘違いをしていたからって、そんなにも検視に時間がかかるものなのか……? そんなに珍しい傷だったのだろうか。確かに、僕も今まであんな傷口は見たことが無かった。しかもあんなにたくさんあったんだから、混乱するのは無理も無いのか……)

 4.現場(2)

 現場では鑑識がまだ作業を続けていた。何かを発見しては、せっせとピンセットで挟んで小さな透明のビニール袋に入れていく。
「おや?」
「どうかしましたか?」
 鑑識の一人が何かを発見した。仲間が近寄って発見物に顔を近づける。それは、カメムシの死骸だった。それも一応ビニール袋に入れて持ち帰る事になった。事件捜査では、何が手がかりになるかは分からないのだ。どんな些細なものでも見逃してはいけない。
 作業の成果は、あまり良いものとは思えなかった。見つかったのは、カメムシの死骸が一つと、その付近に落ちていたティッシュペーパー。そのティッシュ ペーパーには、カメムシの体液が付着していたため、被害者か犯人がそのティッシュペーパーを用いて潰した、と鑑識の面々は推測していた。
 後は、被害者と捜査員のものと思しき頭髪。指紋は被害者のものしか出てこなかった。何の手がかりも残していない。この殺人は用意周到な計画殺人なのかもしれない、と、また鑑識の面々は推理を繰り広げていた。

 5.A県警察署(2)

 鑑識の報告を受けた捜査本部の刑事達はうな垂れていた。手がかりなし。これが現状で出せる、捜査の結論だ。
 再度聞き込みに出たり、無謀にも鑑識の持ってきた品とにらめっこしながら検討したりと、色々と奔走するものの、相も変わらず捜査は進展しなかった。
 時は既に夕刻を過ぎた、午後七時四十分。真夏と言えども、さすがに太陽は落ち、窓の外は街頭の光とビルの光とでライトアップされている。そのおかげで、この街には、闇は殆ど無い。
 ガチャリ、とドアノブを捻る音が捜査本部に響いたのは、その時だった。
「お待たせして申し訳ありません、皆さん。報告が大変遅れてしまいました。実は、検視の詳細な結果は、午後六時頃に既に届いていたのですが、私の手違いで 同僚の手に渡ってしまいまして、それで同僚が気付くまで署内をあたふたと捜索していますと、刑事課に私宛に電話がかかってきたので呼び出されました。そし て同僚の住んでいるアパートまで取りに行っていたら、このような時間になってしまった次第です。同僚は悪くないのです。私がまったくドジなばっかりに。本 当に申し訳ありませんでした」
 石田巡査が、部屋に入るなり一気に捲くし立てると、石田巡査は叱責を受けると思い身構えていたが、意に反し暖かい慰みの言葉が返ってきた。
「いや、良いんだよ。どうせ手がかりはゼロなんだ。今頃検視結果が届いた所で、なんの役に立つのか分からんよ」
 いつものように庄山警部が代表してそう言うと、石田巡査は、バツが悪そうにこう言った。
「いえ、そうではないんです。この検視結果さえあれば、手がかりなんて無くても事件は解決できるかもしれないんです」
「何ィ!?」
 石田巡査のその言葉に、その場にいて驚かなかった刑事はいないだろう。またしても石田巡査は、とんでもない情報を運んできてくれたのだ。

 エピローグ

 人間は自惚れている。人間は知能が高く、身体能力も高い。昆虫などとは比べ物にならないくらいに。だが、それがどうしたというのだ? 能力が高ければ、その命の尊さも高まるのか? そんなわけは無い。人間も昆虫も、元々は知能の低い動物だった。
 原始時代、多少知能が他の動物よりも高かった人間。その頃はまだ、今のように自惚れは無かった。他の動物と同じように、一動物として生活していた。
 その頃はまだ、『人間』と『動物』に分けられてはいなかった。その頃はまだ、『動物』の中に『人間』は含まれていた。
 だが、今はどうか? 『動物』と言えば、人間以外の生き物を指すようになったではないか。どうしてだろうか? それは人間が他の動物よりも高度な知的生活を送るようになり、全く別個の存在だと勘違いを始めたからだ。
 そうして人間は自惚れ始めた。人間の死は激しく悼まれ、号泣される。動物の死は、大切にしていたペットででもない限り、泣いてやることもない。
 江戸時代――第五代将軍徳川綱吉の時代。西暦では一六八七年。「生類憐みの令」が発令された。犬・猫・鳥などの生きものの殺生を禁じたものだが、これは 当時――現代でもそうだろうが――不人気であったようだ。動物を殺せば、罰せられる。今の時代でもある程度、動物虐待に対して罰は設けられているが、この 「生類憐みの令」はもっと凄かったようだ。
 だが、こんなものでも足りないのではないだろうか。これでもまだ人間と同等の罰を与えていたようではない。綱吉もやはり、自惚れていたのだ。
 人間は、知能が発達しただけで、自分達の死は他の動物達の死よりも尊いものだと勘違いを始めてしまって今日に至る。未だにその勘違いは直されていない。 人間も、犬も、昆虫も、命の価値は同等なのだ。それを分からない人間は、いくら知能が発達していようと、それでは駄目だ。
 犬も、猫も、昆虫も、それらなりに生きている。ただ、人間の力は強すぎ、他の動物が弱すぎることによって、他の動物の死は、大したものではないと思うようになってしまった。それではいけない、いけないのだ。
 気づけよ人間! 恥を知れ人間!

 『N市仲野靖殺人事件』の犯人。そんなものはいない。だが、彼を殺したのは僕達だ。犯人はいない。だが、僕達という犯虫ならいる。そうだ、僕達は虫だ。それもカメムシ。仲野に殺された我が子の恨みと、日頃溜まっていた人間の自惚れに対する鬱憤をぶつけてやったのだ。
 一気に足から上り詰めて肉壁を食い破って内臓も食ってやった。色々なところから同志達を集めていたから、あの時には数え切れないぐらいのカメムシがい た。奴は足を取られ、仰向けに転んでしまった。奴は叫んで助けを呼ぼうとしたが、声が出るようになったのが遅すぎた。同志達は果敢にも奴の口の中から喉へ と進入し、声を出せなくした。その同志達は運良く脱出するか、飲み込まれるかしたので、喉の中に残る事は無かった。
 そうして奴の体には十数箇所もの穴が開き、世にも奇妙な肉塊が出来上がったのだ。


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