クリスマス・イベント


プロローグ

 

「ねぇねぇ、どうしてサンタさんっていつも赤い服を着てるの?」
「それはね、サンタさんが殺人狂だからよ」
「殺人狂は皆赤い服を着てるの?」
「いいえ、殺人狂はね、殺した相手の返り血をたくさんあびるから、来ている服が赤くなっちゃうのよ」
「じゃあ、どうしてサンタさんは鬚もじゃらのままで、鬚を全然剃らないの?」
「あれはね、付け髭なのよ」
「どうして?」
「人を殺す時に正体がばれるといけないから、それを隠すための変装なのよ」
「でも、どうしてずっと付けっぱなしなの?」
「長い間ずっと付けて殺し続けていたから、すっかり元々自分の鬚だったと思い込んでしまっているのよ」
「ふうん。じゃあ、なんで服は着替えないの? 着替えれば服の返り血は隠せるよ」
「それはね、サンタさんは貧乏だから、新しい服は買えないのよ」
「でもサンタさんは子ども達にプレゼント配ってるよ?」
「それはね、サンタさんは強盗でもあったからよ」
「じゃあ、サンタさんは盗んだものを子ども達にあげてるの?」
「そうよ」
「どうして? せっかく盗んだものなのに、他人なんかにあげちゃっていいの?」
「それはね、サンタさんだって本当は上げたくないのよ。でもね、そうしないと許してもらえないの」
「誰に許してもらえないの?」
「サンタさんが昔に殺した子ども達の霊や、その親達によ。プレゼント配りは、その罪の償いなのよ」
「サンタさんは子どもを殺していたの?」
「そうよ。あなたみたいな子どもをね。ふふ。それで、子どもを殺したついでに盗みも働いていたの」
「……ふうん。サンタさんはその時に盗んだものを配り続けているんだね」
「そうよ。サンタさんは、たくさんたくさん盗んだから、まだまだ配り終えないのよ」
「でもどうして他人に配るの? 殺した人の親にでも配れば良いのに」
「それはね、サンタさんが殺人狂だった時が凄く長くって、罪の償いを始めた頃には親族は皆死んでしまっていたからなのよ」
「そっかぁ。ねぇねぇ、今年も貰えるかな、クリスマスプレゼント?」
「さぁ、どうかしらね。それにしても……」
「どうしたの?」
「サンタさんは殺人狂の強盗だったのよ。いつまでも盗んだものを配るだけ、なんて耐えていられるかしら?」
 女はにやりと笑った。
「でも、対処法はあるわ……」

     *     *     *

 クリスマス・イヴの夜。後一時間もすればクリスマスだ。今は雪が降っているが、テレビの天気予報では明日の朝には止んでしまうらしい。
 そんな夜の空に、真っ赤な服、真っ赤な帽子、白いもじゃもじゃした顎鬚と髪。がっしりとした体を持った男が一人、風に長い顎髭をなびかせながら飛んでいた。
 彼の乗るソリは、二匹の真っ赤な鼻をしたトナカイによって引っ張られている。
 トナカイは勿論、男のほうも何も言わず、無言のままに手綱を振るって走っている。ソリの積荷はまだまだたくさんある。
 今年もこの男は、子ども達の家へプレゼント配りをしているのだ。

 

第一章――強盗殺人事件

 

 十二月二十五日。イエス・キリストが生まれたとされる日。実際にはこの日にキリストが生まれてはいない、という ことを、一体どれだけの人が知っているのだろうか。冬至であるこの日を境に太陽の出る時間が長くなる。つまり『太陽誕生の日』という他宗教の、ある種のイ ベントを利用してキリスト教普及を図り、この日をキリスト誕生の日とした、という説があるが、それ以外にも色々と説はある。
 そんな曖昧なキリスト聖誕祭の日の朝。凡近荘というアパートの一室、三○五号室。そこに住む獄盛勲という男が目を覚ました。着古したTシャツの上から背中をぼりぼりとかきながら起き上がる途中、頭の上に乗っていた枕が落ちた。
「まだやってやがる……」
 ぼそりと呟くその言葉の意味は、昨夜からこの凡近荘の近くで行われている道路工事の騒音について文句を言っているのである。正確に言えば深夜には工事は終了していたのだが、その頃には獄盛は眠っていて、彼にとっては昨夜からずっと工事が続いているようなものなのだ。
 彼はここでの生活にはもう慣れていて、工事の騒音にも殆ど慣れてしまっているのだが、やはりうるさいことはうるさい。騒音は無いほうが眠りやすいに決 まっている。それに何故だかは分からないが、この時期になると何故か気分が鬱になる。体も疲れる。自分が独り身なせいだろうかと思う。だから今日は余計に 気が立っていた。
 そして更に彼の耳に届く五月蝿い音に、新たな騒音が加わった。彼はその騒音を絶つべく、立ち上がり、新たな騒音発生物を手に取る。
「はい、こちら獄盛ですが」
「獄盛か、おまえの住んでるとこの近くで事件が発生した。至急現場に向かってほしい。場所は、《孤児院メリーフラワー》だ。お前、確か前に何度か行った事があるとか言っていたから場所は分かるな?」
 一気に捲くし立てられた言葉に、怯むことなく、はい分かります、と低く渋い声を返す獄盛。そして彼とやりとりを交わす、新たな騒音発生物だったもの―― 電話の受話器から聞こえてくる声の主は、獄盛の勤めるB県警の、吉川宗司という刑事部の部長だった。彼と獄盛とは古い付き合いで、上司と部下という関係を 除いて飲み歩いたりする事がある。そして今回のように、部長直々に電話で連絡をよこされるのも珍しくなかった。
「メリーフラワーで……事件ですか、わかりました。しかし……殺人ですか?」
 《孤児院メリーフラワー》は、獄盛が個人的に何度か行ったことのある場所だった。知り合いもいる。それで獄盛は心配になって、殺人事件かどうかをまず確認したくなるのも無理も無い事だろう。
「ああ、詳しいことはまだ分かっていないのだが、どうやら強盗殺人らしい。二人殺られた。内一人は、あの有名なT金融会社の会長だそうだ。詳しい事情は聞 いていないので、何故彼がそこにいたのかは分からん。他の奴らにも向かわせるが、とにかく急いで向かってくれ、じゃあな」
 それだけ言って部長は電話を切ってしまった。
「強盗殺人か……ふん、クリスマスぐらい犯罪もなくなってくれるとありがたいんだがな。いや、それよりも……」
 ひとりごちる獄盛。そこで彼の心配する所は、事件の厄介さではなく、もう一人の被害者が誰かにあった。
(彼女でなければ良いが……)
 今度は口に出さず、心の中の呟きにとどめられた。
 そして、名前の厳つさに比べて案外ロマンティストな一面を持つ、この中年の男は、急いで愛用の真っ黒なスーツを着込み、十字架の首飾りを首に通してから ――彼は更に意外なことにクリスチャンでもある――、現場へと急ぎ向かう。機動捜査隊は、急いで現場へ向かわなければ意味が無いのだ。事件発生から二、三 時間が勝負だが、獄盛はすっかり事件の発生時間を訊くのを忘れていた。いや、訊く隙間が無かった。部長も言うのを忘れていたのだろう。しかし、機捜隊が出 るというのだから、死後それほどたっていない筈である。
「とにかく行ってみるか」
 彼がアパートから出ると、空は雲一つ無い快晴だった。昨日の夜の雪は、完全に止んでいた。そして、外の愛車のもとに行く途中で、先ほどからずっと続いて いる騒音の元、工事現場を通りかかった時、その工事は今日中には終わる予定だと看板に書かれていたのを、獄盛は確認していた。


 誰の目であろうと、見た目からは想像出来ないロマンティストでクリスチャンの獄盛勲という厳つい名前と厳つい顔を有する中年男が、《孤児院メリーフラワー》の前庭に、愛車の黒いワゴンを駐めたのは、彼がアパートを出てから十分と経っていなかった。
「あ、獄盛さん!」
 獄盛が愛車から降りるや否や、声をかけてくる女性がいた。どうやら外で警察の到着を待っていたようである。獄盛と同じぐらいの年齢の、ミドルヘアの女性だ。
「おお、坂下さん」
 彼女は獄盛と知り合いだった。この孤児院で働く職員の中で、最も親しいのが彼女である。それというのも、彼女と獄盛とは基督教系の私立大学時代からの知り合いだというのもある。
「ここで事件があったと聞いたから駆けつけてきたんだが……一体何があったんだ?」
「ええ、そうなの。それが……職員の女の子と、前々からたくさんのお金をこの孤児院に寄付してくださっていた立川さんっていう、どこかの――なんていう名 前かは忘れちゃったわ――金融会社の会長さんの、二人も殺されちゃって……私は現場は見ていないんだけれどね、酷い殺され方をしているみたい。後、広間が 滅茶苦茶に荒らされているの。それは私も確認したわ」
 急いで走りよってきた彼女は、走ってきたのと同じくらいの早さで、それもどもりながら一気にそう説明した。かなり動揺しているようだ。それも当然で、人が二人も死んでいるのだ。動揺しない方が不自然である。
「広間だけが?」
 まるで殺人のことなどどうでも良いというような口調で獄盛はその点を訊いた。
「ええ。それも子ども達へのクリスマスプレゼントが特に酷いの。とにかく見てもらえば分かるわ」
 そして獄盛は、ベテラン刑事らしく、全く焦らずに坂下の案内に従い、孤児院メリーフラワーの中へと入っていった。
 建物の中はしんと静まりかえっていた。まだ早朝の六時である。子ども達も起きてきていないのであろう。途中の廊下でも数名の職員と会釈を交わす程度で、 先頭を行く坂下と獄盛自身の足音以外何も音はなく、孤児院の中は静寂そのものだった。こんなところで犯罪が行われたとは、事件捜査の経験が豊富な獄盛でさ え、到底思えないことだった。
 だが、その考えも『広間』と書かれたプレートが真中につけられたドアを開くと、改めざるを得なくなった。
「あ、まずは広間を見てください。ここです」
 そう言いながら坂下が開いたそのドアの中を一瞬見た途端、獄盛はここが犯罪現場であるという感銘を始めて受けた。ベテラン刑事の獄盛がここで漸く気付くといったほどまでに、この孤児院内は静寂に満ち溢れていたのだ。
 もしかするとこの時点で、"狂い"が始まっていたのかもしれない。この静寂こそが、"狂い"の、いや"狂気"の前触れ、その事に気付くのは、まだ誰にも出来なくても無理は無い。
「こりゃ酷い」
 荒らされている。その一言では表しきれないほどに、広間の中は荒らされていた。『広間』と言うほどなのだから、元々物はあまり置かれていなかったようだ が、壁の前に置かれた棚の中にあったぬいぐるみなどの玩具、更には部屋の右奥の角に置かれていた筈のオルガンまでもが倒されていて、足場はかなり減ってい た。そして、クリスマスプレゼントが三々五々に散らばっていた。それも、綺麗に包装されていたはずの物は無残にも包装紙が引き裂かれ、箱もぐしゃぐしゃに へし曲げられて中身も取り出されて壊されていた。とにかく酷い有様である。
「ね、酷いでしょう。子ども達へのプレゼントまでこんなにしてしまうなんて……犯人さん、今日がクリスマスだって事、知らなかったのかしら」
 犯人にまで"さん"を付けるところがまた彼女らしいな、などとこの場らしからぬ事を一瞬考えた獄盛だったが、すぐに気を取り直し、刑事の腕を披露し始めることにした。
 数分の間、獄盛一人が現場に落ちている物を動かさない範囲で中に進入して、犯人の落し物でもないかと捜していると、表からパトカーのサイレンが聞こえて きた。B県警の機捜隊の面々が到着したのだろう。どたどたと騒々しい足音が聞こえてきたかと思うと、孤児院内は一気に、さっきの静寂から騒然とした物々し い捜査現場へと早変わりした。
「ご苦労様です」
 広間のすぐ外で待っていた獄盛に、そう言って近寄ってくる、もうすぐ三十代になるかならぬかぐらいの私服刑事がいた。そして彼は、首に巻きつけていた黒いマフラーを外して首に掛けなおしてから、
「どうですか、現場の状況は?――おい、こっちだ!」
 新参者の男に呼ばれ、他の刑事達――それは機捜隊の刑事と鑑識課の刑事で構成されていた――も続々と広間の方へ向かって来る。獄盛は新たに現れた男の方は見ず、後続の刑事達のほうへ視線を向けたまま、
「ああ、酷い荒らしようさ。見てみろ城嶋。このザマだ」
 新参者の男の名は城嶋一孝。階級は警部補で、機動捜査隊では獄盛と組んでの行動が多い――特に仲が良いというだけで、二人だけでの行動は無い――。今回もまた、二人が中心となって捜査を行う事になりそうだ。
 広間の入り口を開いて中を見せられた城嶋は、思わず驚嘆の言葉を漏らしていた。
「うわあお。これは凄い。こんな無茶苦茶やる賊は今まで見たことがありませんよ。正に無茶苦茶だ」
 それから少しの間、城嶋は入り口の前に突っ立ち、ぼうっと部屋のぐるりを眺め回していた。
「おいおい、感心してばかりいずに捜査を始めるぞ。お前らが来る前に少し調べたがな、怪しい物は何も落ちていなかった。まだここの職員達には尋問をしてい ないから、俺は尋問をしてくる。その間にお前はもう一度ここを調べておいてくれ。何か怪しいもの――つまり犯人の残した遺留品などのことだが――それを探 してくれ」
「分かりました。しかし……」
 怪訝な表情で城嶋は、上司である獄盛を見上げた――上背は獄盛のほうが高かった――。
「なんだ、まだ何かあるのか?」
「何って、ホトケのほうは何処なんですか。確か二人殺られたんじゃありませんでしたっけ?」
 そう言われて獄盛は、そんなことは今の今まで忘れていた、というような顔で、ああ、と呟いて、
「そういえば強盗殺人だったな。まだどこかは聞いていない」
「しっかりしてくださいよぉ、獄盛警部。本当に、殺人に関しては全く興味無しですもんねぇ」
「ふん、赤の他人が死んだだけだろうが。それでなんで悲しむ必要がある、怒る必要がある、気にする必要がある? まぁ、身内や知り合いが死んだってんなら、そりゃ俺だって鬼じゃない。その時は泣くかもしれんがな」
「理に適っているようではあります。しかし、それでいて、非人間的だ……」
「うるさい」
 そう言って獄盛は、拳骨で城嶋の頭を小突く。穏やかな口調で、それほど怒っているわけでもないことは城嶋にも感じ取れるほどだった。このようなことは二人にとってはいつものことである。
「いてて、すみません」
 小突かれた頭を撫でつつ苦笑しながら、城嶋は広間に入って自分の仕事を開始した。それを確認した後で、獄盛も行動を開始する、二体のホトケ――死体を確認する仕事に。
 獄盛勲という男は、これまでの言動で分かるとおり他人の死に対しては全くの無関心である。他人が死んだところで自分はどうにもならない、そういう思考の 持ち主なのだ。こういったことから、彼のキリスト教信仰の深さが――浅さが、と言った方が適切だろうか――窺えるだろう。
 広間から更に少し奥へ行ったところで坂下紀子が待っていた。彼女は、被害者さんを見に行かれるんですよね、と言い、無言で頷く獄盛を先導して歩き出し た。この頃には彼女は随分と落ち着きを取り戻した様子であったが、今度は前庭で会った時に示したものとは別種の、恐怖とは違う、興味というべき興奮の色を 示していた。殺害現場を見ることになるだろうということに興奮しているのだろう。確か彼女は大の推理小説ファンだった筈だ。
 廊下は既に他の捜査員達が行ったり来たりを繰り返し始めていて、以前の静寂さはどこかへ姿を隠していた。その静寂が鳴りを潜めた事により、孤児院に暮ら す孤児達が目を覚ましてきたようだった。部屋の前の廊下を通る度に、各部屋の内部から子ども達の騒いている声と、それを宥めようと努力する職員達の声が入 り混じって聞こえてくる。時には中を覗いてみると、この建物内で強盗殺人事件が起こったことなど露知らず、子ども達が早速笑いながらはしゃいでいる様子さ え見ることが出来た。
 暫くそんな妙に平和な雰囲気に包まれた廊下を歩いていた獄盛と坂下だったが、第一の角――この孤児院はこの角を中心に直角に折れ曲がっていて、上空から 見ると、ちょうどアルファベットの大文字の『L』に見えるように出来ていた――を曲がると、再び鳴りを潜めていた静寂が復活した。そして、その復活に気付 いてか坂下が、
「この角から先には子ども達のいる教室は一つも無くて、職員室と応接室と倉庫があります。だからこんなに静かなんです」
 そう説明して、角を曲がった所で止まっていた歩を再び進ませ始めた。
 静寂が復活した、と前述したが、それは完全にではなかった。何故なら多数の捜査員達の出入りする足音がそれを邪魔していたからだ。その捜査員達に混じっ て、白衣を着た検死官が獄盛達を追い越して行った。彼は既に他の誰かの刑事に殺害現場の場所を聞いているようで、彼の自信に満ちた歩き方がそれを物語って いた。それなら獄盛は彼に着いて行くことにして、坂下は引き帰らせようかとも考えたが、彼女が大の推理小説ファンであること知っている獄盛は、本物の殺害 現場を見せてやりたいという心が勝り、そのまま先導してもらう事にした。
 暫く進んで行くと、銀色のスライド式の扉があり、その前で立ち止まった坂下は右手をその扉に向けて、ここです、と言った。獄盛は、それに無言の頷きを返し、扉の取っ手に手をかける。音を立てながら開いた扉の向こうには……死体の姿は見えなかった。
「ん?」
 獄盛が中にも入らず不思議がっていると、背後にいた坂下がどうしたのか訊ねた。
「いや、ホトケの姿が見当たらないんだが……」
 部屋の中は、真中に低いテーブルがあり、それを取り囲むようにしてソファが四つ――左右に二つ、上下に二つという配置で――置いてあった。その他には部 屋の左右の壁に書棚があり、その中には教育関係の本がぎっしりと詰め込まれている。部屋の内容物といったらそんなところで、殆ど何も無い質素な部屋だっ た。どうやらここは応接室らしい。そのことは分かったが、ここにはあるはずの死体が二体とも見当たらない。一体これはどうした事か。
 獄盛はその事を坂下に伝えると、彼女は漸く部屋の中へ入ってきた。
「おかしいですねぇ。確かこの部屋だって聞いたんですが……」
 坂下も不思議だという様子で部屋の中へと足を踏み入れる。

 カチャリ

 何か金属質な音が応接室に響いた。不審がって入り口の方へ振り返った獄盛は、そこに笑顔で立っている坂下紀子の姿を認めた。扉が閉められている。恐らく彼女がこの部屋の扉の鍵を閉めたのだろうが、何のために? 不審がる獄盛をよそに、坂下は、
「た・け・も・り・さん」
 笑顔で、後ろ手に手を組んでスキップしながら獄盛の方へ近づいてくる坂下。そのような態度をとる坂下を見たことが無い獄盛は、狼狽して何も言葉が発せられないまま、坂下が自分の目の前で立ち止まった。そして……

 グサリ

「うっ……」
 坂下の手には果物包丁が握られていた。そしてその手を獄盛は握っている。獄盛の握る手が握っている果物包丁は、獄盛の腹に深々と埋まっていた。
 獄盛には何が起こったのか理解できなかった。だがそれも、坂下の手によって果物包丁が彼の腹から引き抜かれることによって終わりとなった。獄盛は理解した。俺は坂下紀子に刺されたのだ、と。
 果物包丁が引き抜かれた獄盛の腹から鮮血が迸る。それを手で押さえるものの、血の出る勢いは全く抑えられない。
「な、なぜ、だ……」
 やっとの思いでそれだけの言葉を搾り出した獄盛は、そう言った後、がっくりと膝を落とし、前のめりに倒れこんだ。獄盛はそれでも、精一杯顔を上に上げて坂下紀子を目で捉えようと努力する。
「ふふふふふ。やっぱり最初の犠牲者は獄盛さんが良いと思いましてね」
 彼女は笑顔で答える――もっとも、その顔は獄盛には見えていないが――。
「ふふふふふ。獄盛さん。私、結構獄盛さんのこと、好きでしたよ――」
 そこで獄盛の意識は途絶えてしまった。

 

第二章――殺物事件

 

 凡近荘というアパートの一室で、枕を後頭部に載せて耳をふさぎながら眠っている男がいた。彼の名は獄盛勲。白いTシャツ一枚に黒のトランクス姿で、布団はずれてどこかへ行ってしまっている。
「ううん」
 男が唸り声を上げながら起き上がる。その時頭に載っていた枕が床に落ちた。そうして起き上がると、男は背中をボリボリとかいた。
「まだやってやがるのか」
 その呟きは、自然に発せられたものだった。どうと言うことの無い、アパートの外で行われている工事の騒音に対する呟き。しかし、それは男に衝撃を与え た。その呟きの内容に深い意味は無い。しかし、その呟き自体には、深い意味がある。その前の唸りにも、そして次の呟きを発した事にも。
(俺は……あれは、夢だったのか? それにしてはリアルな夢だったが……)
 そう心の中で呟いて、男は自分の腹のあたりを触ってみる。何も異常は無い。
(やはり夢か……それにしても嫌な夢だったな)
 男がそんな事を思っている間も、外の工事は当然のように行われている。
「ん?」
 その時になって、彼は漸く異変に気が付いた。それほど大きな、先程まで見ていた夢――少なくともこの時は彼は夢だと信じて疑わなかった――ほどの衝撃を与えうるものではないが、しかし、おかしいことではあった。
「夢の中でも確か工事をしていたな……」
 気になった獄盛は、窓から工事の様子が見えないものか覗いてみる事にした。夢の中ではそこまではしなかったな、と考えながら。すると窓からは、アパート の裏側の道路で行われている工事現場の看板が見えた。目を凝らして見ると、予定工事期間をなんとか見ることが出来た。そこには、十二月二十三日〜十二月二 十五日、と書かれていた。これもまた、場所は違えど夢の中で見たことと同じである。
 と、その時、また夢の中と同じ出来事が起こった。即ち電話がかかってきたのだ。出ると相手は、やはり、B県警の刑事部の部長だった。
「はい、こちら獄盛ですが」
「獄盛か、おまえの住んでるとこの近くで事件が発生した。至急現場に向かってほしい。場所は、《孤児院メリーフラワー》だ。お前、確か前に何度か行った事があるとか言っていたから場所は分かるな?」
 夢の中と全く同じ台詞が、全く同じ速さで課長の口から捲くし立てられた。獄盛にはその予想がついていたので、さして驚く事も無く応対出来たのだが、面白がって、夢と全く同じ台詞を言ってみることにした。
「メリーフラワーで……事件ですか、わかりました。しかし……殺人ですか?」
 そして返ってくる部長の答えは、やはり夢の中と同じ――ではなかった。
「なんだって、サツジン? おいおい獄盛。一体いつの事を言っているんだ。《殺人》などという言葉はもうとっくに死語だぞ。はははは」
 獄盛には何を言っているのか理解できなかった。そんなことには気付かず部長は言う。
「こんな時に冗談はよせ。孤児院メリーフラワーという所で殺物事件が発生したらしいんだ。早く行ってくれ、じゃあな」
 それだけ言って、部長は電話を切ってしまった。
 (どうなっているんだ。……サツブツだって? 吉川の方こそ訳が分からない。仏でも殺されたのか? いや、ホトケはもう死んでいるからそれは変か……)
 獄盛はそのまま少し考え込んでいたが、事件が発生し、その捜査を命令された事を思い出し、慌てて服を着替えて部屋を飛び出そうとした。とにかく現場へ行けば何か分かるだろうと思ったのだ。
 しかし、それは引き伸ばされる事になった。その原因というのは、愛用の黒いスーツを着ようと思いそれを拾い上げた時、どこかのポケットから警察手帳が落 ち、獄盛はそれを拾い上げてさっさと出て行くつもりだったが、落ちたはずみで開いたページの一部に、気になる言葉を発見したためにそれを確認することにし たからだった。そこは、獄盛の所属部署が書かれている部分だったのだが、その最後の方の文字に、彼の気を引いた文字があった。

 所属部署:B県警察署刑事部殺物課

「殺物課だぁ?」
 素っ頓狂な声を上げた獄盛の目は、自然と、警察手帳の中の意味不明な文字を見つけたときと同じように、警察手帳の落ちていたところにあった新聞の第一面 に移り、そちらに完全に注意が引かれてしまった。その新聞は、見ると日付は西暦二〇〇四年の今日のもので、『殺物論』本格的採用、という大見出しが書か れ、その『殺物論』とやらについて長々と本文が費やされているようだった。その本文に囲まれるようにして『殺物論』のメインらしい部分が抜書きされ、四角 で囲まれている。その内容は次のようなものだった。

 《殺し》とは《破壊》である。
 人を殺す。物を壊す。どちらも原子の塊を傷つけ、破壊している事に違いはない。
 そもそも、人も物である。『人物』という言葉がそれを立証している。だからして、《殺し》とは《破壊》であり、《殺人》とは《壊人》なのである。
 《殺人》や《壊人》とは、単に人物をナイフで刺し殺したり、紐で絞め殺したりする《殺し》だけとは限らない。精神の《破壊》という殺し方もある。
 近親者の惨殺死体を見た人物が口をきけなくなったりする。それもまた《壊人》であり、詳しく言えば《精神破壊》である。それもまた《殺し》ではあるが、 これは未遂に終わっている。その人物は、精神の破壊により、会話機能という破壊される前には備えていた一部分を失った。それは角の部分が破壊されてしまっ たブロックと同じようなものだと言えば分かりやすいだろうか。

 《精神破壊》は、時に《殺人》となる。それはたとえば、学校でいじめられた生徒が精神を破壊され、ついにはその生徒は自殺をする、ということである。いじめという《精神破壊》行為が、その人物を自殺という自己の破壊行為に導かせたのだ。

 壊れた物は、何故壊れたのか? その問いには誰でも簡単に答えることが出来る。それは壊れた物が脆かったからだ。たとえばそれは、紙を鋏で切る行為で あったり、パンを引き裂く行為であったり、ブロックを粉々に叩き壊す行為であったりする。そして、それら破壊例の中にもう一つ加えるべき事柄がある。それ は、人間の自殺をする行為である。自殺とは、前述したとおり、いじめという精神破壊行為によって破壊された精神が、自己の破壊という行為に導かせたことで ある。だが、皆が皆、いじめられれば自殺するわけではない。いじめに耐え、生き抜く物もいれば、耐え切れず自殺する物もいる。それは、いじめを受ける人物 の精神力の頑強さによる違いである。自殺するものは精神が脆く、自殺しないものは精神が強い。単純なことである。
 人を殺す事も、物を壊す事も、同じ破壊行為なのである。
 《殺し》とは《破壊》であり、《破壊》とは《物》を《壊す》事である。つまるところ、《殺し》とは《殺物》なのだ。

 『殺してやる』という言葉を聞いて、戦慄しない物がいるだろうか。それが冗談であれば話は別だが、それは本気で《殺し》にかかってくるとしたら……
 《殺し》とは怖ろしい行為なのだ。だからして、《殺し》と同じ《殺物》もまた、怖ろしい行為のはずである。同じ怖ろしい行為ならば、その恐怖なども等しいのだ。
 つまり、《殺人》=《殺物》であり、人も物なのだから、最終的にそれは《殺物》の一語で纏めることが可能となる。
 そして、《人殺し》と《物壊し》は同じものであり、《壊す》事は《殺す》事なのだから《物壊し》は《物殺し》となる。
 《殺し》は残虐非道な行いなのだから、その対象が人であろうと物であろうと同じことになる。
 つまり、人と物は同等に尊重されるべき、ということになるのだ。

――イギリスの哲学者シュベルト・アストル著『殺物論』より抜粋



 こんな馬鹿なことがあって良いのか。こんな屁理屈が現実に認められるわけが無い。これこそ夢じゃないか。獄盛はしばし唖然と、新聞紙を握り締め立ちすくんでいた。
「夢?」
 そうだ、これが夢なのだとすれば、さっき俺が殺されたのが現実なのだとすれば……いや、これは夢ではない。さっきのが現実だったならこれは夢とは言わず、死後の世界――あの世、とでも呼ぶべきだ。天国とはこういうものなのか?
 獄盛がそう考えたのは無理も無い事だった。彼は生粋の日本人。これまで生きてきて万引きのような悪事さえ何一つしていない、むしろ警察官として人の為に なる仕事をやってきたのだ。彼はキリスト教徒ではあるが信仰心はあまり深くないし、日本生まれの日本育ちで尚且つ性格がロマンティストなのだから、死ぬな ら天国へいけるものと信じていた。
 だが、今直面している事態は彼の想像していた天国の世界とはまるで違っていた。以前と同じアパートで、以前と同じ格好で、足で地に立ち、頭の上に浮かぶ光輪も無い――彼は心の底から、というわけではないが天国とはこういうものだと信じていた――。
 次に獄盛が考えたのは、やはりこれはあの世などではない、ということだった。ロマンティストとは、自分が信じていたロマンをそう簡単に間違いだったと認めるものではないのだ。
 そうして獄盛は、この奇妙な現実――彼はそう思い込もうとした――で、彼がすべき事は何かと考え、それは職務の遂行、即ち事件捜査であることに思い至 り、先ほど事件捜査の命令を受けたことを思い出した。彼は急いで服を着替え、愛車に飛び乗り孤児院メリーフラワーへと急いだ。
 外は曇り、雪が降りつつあった。十二月二十五日――こうしてクリスマスは始まった。


 愛車の黒いワゴンが孤児院メリーフラワーの前庭に駐車する頃には、既にパトカーが三台駐まっており、捜査を開始しているようだった。
(ちっ、遅刻しちまったか)
 獄盛は、平静な態度でこんなことを思う自分に気付き、朝の出来事は寝ぼけてみた、あれこそが夢だったのではないかと思ってみたりした。
 彼は孤児院の中へ入り、広間まで辿り着いた。途中、坂下紀子の姿をそれとなく探しながら進むも、見つけることは出来なかった。今の獄盛には、また彼女に刺し殺されるのではないかという不安と、今度はもう殺られたりはしないという覚悟があった。
「なんて酷い……こんな殺物事件初めてだ……」
 広間の中からそんな声が聞こえてきたので、やはりあれはまだ続いているのかと思い知らされたが、もう獄盛は諦めたといった態度になっていて、その殺物事 件とやらを捜査して犯人を捕まえてやろうではないかと考えるようになっていた。そうすれば、もしかすると元の世界に戻れるかもしれないと考えたからだ。そ れでもしかし、やはりここは天国なのではないかという疑問を完全には払拭できずにいた。
「あ、獄盛警部。遅いじゃないですか、何してたんです?」
 先ほどの呟きも、この城嶋一孝の発したものだったらしい。何度と無く聞いてきた彼の声と姿を認めると、獄盛は妙に安心し、つい溜息を漏らしていた。
「どうしたんですか、警部? お顔の色が優れないようですが……」
 最後のほうは皮肉めかして微笑を浮かべながら城嶋は言った。そこで獄盛は、思い切って訊いてみることにした。
「おい、城嶋。これは現実か?」
 城嶋はポカンと口を開けて、何を言っているんだこの人は、とでも言いたげな顔で獄盛の顔を見つめている。なんともわざとらしい態度だったので、獄盛は少し腹が立ち顔を顰めていた。
「獄盛警部。キリストへの信仰心が深まりすぎて、頭でもおかしくなられましたか?」
 今度は本気で心配しているような調子で獄盛の顔を覗き込む城嶋に、獄盛は、もういいと言って事件の話に話題を変えた。
「ところで、事件はどんな状況だ。被害者は?」
 それを聞いた城嶋は、またポカンと口を開けて獄盛を見つめている。やはりわざとらしい。馬鹿にしているのか。なんなんだ、と獄盛が訊くと、城嶋は獄盛の背中に手をやり広間の外へ連れ出し、
「警部、本当に大丈夫ですか? "被害者"なんて死語まで使って……今日のところは御帰りになったほうがよろしいんじゃありませんか?」
「何を馬鹿な。俺は正常だ。お前達こそどうかしているんじゃないのか? とにかく、被害者……いや、被害物はどうなんだ?」
 獄盛は、この世界の常識が大きく変わっていることを、今朝、新聞で読んで知っていたため、もうこれ以上変に思われて現場から帰らされるわけにもいかないと思い、仕方なくあわせることにした。
「ふぅ。漸く元に戻りましたか。被害物は、まずはここの――そう言って城嶋は広間の中を指し示した――広間の中に置かれていた物の殆ど九割がたですが、特 にここで暮らしている子ども達へのクリスマス・プレゼントとして職員達が用意していた物が酷くやられています。まぁ、見てください」
 城嶋はそう言い、再度広間へと獄盛を連れ込む。中の様子は、獄盛が天国だと疑っている世界で見たものと全く同じらしかった。部屋の内部は天国のほうで適 度に調べてあったので、そちらは部下達に任せることにして、思い出したのは二人の被害者――人間の被害物だった。内一人はどこかの金融会社の会長だったは ずだということも思い出したので、城嶋にそのことを聞いてみると、その被害物は二つとも奥の応接室にあるとのことだった。《二つ》という数え方と、《あ る》という言い方が気にはなったが、そんなことを逐一気にしてはやっていけない。獄盛は、天国かもしれない世界で坂下に案内してもらった廊下を一人歩き、 坂下に刺された部屋――応接室に辿り着いた。
 扉を開けると、目の前に坂下がいるのではないかという不安が一瞬よぎったが、しかし、坂下はいなかった。いや、目の前に立ってはいなかったが、奥のソファの向こう側に、それはあった。坂下紀子の俯けに倒れた体が。
 獄盛は彼女に近寄ると、傍に跪き、自分では気付かぬ間に涙を流していた。
 自分を刺した女――しかしそれは事実かどうかは分からない。夢だったのかもしれないのだ。そんな曖昧な理由で、愛していた女性を嫌いになる男がこの世に 居るだろうか。もし居るというなら、その男は本当にその女性のことを愛していなかったというだけのことだ。だが獄盛は違う。
「どうして、君が……」
 と、その時。坂下の身体がピクリと動いたような気がした。驚いた獄盛は、まさかと思い彼女の手をとり脈をとってみたが、やはり脈は無かった。
 獄盛は少しの間そうして坂下のことを見つめていたが、すぐに気を取り直し捜査に取り掛かった。
 もう一つの死体は、坂下の身体と反対の向きに、だいたい平行に俯いてすぐ近くに倒れていた。これが金融会社の会長だろう。顔を持ち上げて見てみるとテレ ビや新聞などでも何度も目にした覚えがあった。立川政志、年齢は詳しくは知らないが見たところ六十代後半あたりか。西洋人を思わせる大きな鷲鼻を持った痩 せぎすの老人。髪はほぼ六割以上が白に変わっている。真っ黒のタキシードを着て、右手にステッキを握ったまま殺されたようだ。未だに硬く握り締めている ――これは決してステッキに対する愛着のためではなく、単に死後硬直のせいである――。この分ではシルクハットもあるのではないかと思い、辺りを探してみ ると、それはソファの横に落ちていた。
 そこで改めて二つの死体を仰向けにして眺めてみると、二つとも真正面から刃物で心臓を刺されたのが死因らしい。丁度心臓のあたりを一突きにされている。 他に外傷らしいものは見当たらなかった。ふと、そこで獄盛は立川の胸の辺りに輝く十字型のものに注意を引かれた。それは紛れもなく十字架だった。アクセサ リーでつけているというわけでも無さそうだったので、もしやと思い獄盛は彼の服のポケットをチェックしてみた。すると思ったとおり、聖書が出てきたではな いか。彼も獄盛と同じキリスト教徒だったのだ。

 その後、獄盛が一人で現場の捜査を行っていると、城嶋が検死官を引き連れてやってきた。
「お、本山じゃないか。お前も初動捜査からご苦労だな」
「何だ? 四六時中捜査捜査で走り回ってるあんたが愚痴をこぼさず他人の心配をするとはな。検死官なんて、殺物課の刑事よりは楽なもんさ」
 城嶋が連れてきた検死官はそう言うと、早速死体を弄り回し始めた。彼の言により、獄盛はまたも思い知らされた。自分は今、現実かどうか分からない状態にある、と。
 獄盛は、そこに居ても特にすることがなかったので城嶋を連れて部屋の外へと出た。そして、ふと確かめるような調子で、
「あの金融会社の爺さんもキリスト教徒だったんだな」
 坂下紀子が獄盛の知人であると言うことは、城嶋には話していなかった。その事をわざわざ話そうとも獄盛は考えなかった。
「知らなかったんですか?」
 城嶋が、思っていた以上に驚いた風にそう反応した。獄盛は意外に思い更に問う。
「そんなに有名なのか?」
「ええ。そりゃもう有名ですよ。色々な雑誌でも取り上げられてますしね。本当に知らなかったんですか?」
「ああ、そんな雑誌は読まない主義だ。前にも話しただろ?」
「そうでしたっけ。でも、そういう雑誌も読んだ方が良いですよ。いくら他人に興味が無いからって、情報収集を欠かしていたら警察官としてやっていけなくなっちゃいますよ」
 そう言った後、城嶋はニヤリと笑った。
 彼らはそのまま孤児院メリーフラワーを出、それぞれの車でB県警察署に向かった。捜査班のリーダー格である獄盛は、少し捜査をすると、部下達の報告書を 待っていれば良いのだ。城嶋のほうは獄盛のお気に入りなので、少し現場を見ると獄盛と共に署へ帰り、二人だけの捜査会議を開く。その後で城嶋はまた現場へ 戻り、捜査活動に加わるというのがいつものやり方である。今回もまた、いつも通りに進んでいる。
 機動捜査隊の時と要領は同じらしい。獄盛は一体これが現実なのかそうでないのか、すっかり分からなくなってきていた。それでもなんとか、これは現実ではない、という思考が勝っているらしかった。それは彼が車中、何かの呪文を唱えるかのようにずっとこう呟いていたからだ。
「これは現実じゃない、これは現実じゃない、これは現実じゃない、これは現実じゃない……」

 捜査本部は三階の殺物課だと言う城嶋に案内されて、獄盛は後ろを歩いていた。殺物課がどこにあるのか知らなかったからだ。城嶋は何も言わずに前を歩く。 だが、そんな下手に出る必要も無く殺物課は獄盛の予想通り、以前捜査第一課の部屋だった場所にあった。入ると、予想通りに捜査第一課にいるはずのメンバー が揃って動き回っていた。目撃証言が早速入ってきているようだ。
「お、帰ったか獄盛」
 声のしたほうへ顔を向けると、そこには刑事部の部長、吉川宗司がデスクに座って手招きしていた。なんだろうと思いながらも、獄盛は近づいていった。
「どうだった、事件捜査のほうは?」
 獄盛が目の前に立ち止まるなり、そう吉川は訊いた。
「あまり思わしくありませんね。見てきましたが、殺じ……いや、殺物であることが明らかである事ぐらいしか分かりませんでした」
 実際の所は、獄盛はこれが現実であるのかどうかという思案のために脳を働かせなければならなかったため、他の事、現場の分析などまでには頭が及ばなかったのだった。
「そうか……お前はもう捜査陣から降りて良いぞ」
「は?」
 意外な言葉に暫し呆然とする獄盛。営業成績トップの営業マンが、絶好調の時期にいきなりリストラを宣告されたようなものだった。
 その後、獄盛は執拗に問い質してみたが、部長の返事は、とにかく帰ってよく考えろ、の一点張りだった。

 

第三章――クリスマス・プレゼントの代償

 

 目が覚めると、そこはベッドの上だった。部長に捜査から外されて、それからすぐに家に帰って眠りについたはずだ。しかし、ここは家ではない。布団で寝ていた筈がベッドになっているのだ。
 意識が朦朧としている。ここはどこだ? 私は起き上がろうとした。しかし身体はいうことをきかない。私が唸っていると近くで人の声がした。
「おや、御目覚めですかね?」
 依然朦朧とした意識の中、目を凝らして声にした方を凝視する。するとそこには、城嶋一孝が椅子に座ってこちらを見ていた。そこで獄盛は彼に訊いた。
「うぅん……何だ……ここは、どこだ……?」
「病院ですよ」
「病院、だと……何故だ?」
「…………」
 そこで獄盛は上半身を起こし、真正面から城嶋の顔を見つめ、
「何故答えない?」
「え、いや……実は、獄盛警部は家に帰って眠っている間に盗みに入られたんですよ。そこで寝ている獄盛警部に、強盗は更にクロロホルムを使って眠りを完全 にしようとしたんです。しかし、クロロホルムはドラマのように上手く作用せずに獄盛さんが死にかかることになったってわけです」
「何、俺は死にかけたのか?!」
「そうですよ」
 城嶋は平然と答える。彼の顔に心配の様子は微塵も見受けられない。
「それにしては冷たいな、城嶋。俺が死に掛かったってのに」
「何ですか獄盛警部。僕に心配してほしいんですか? そりゃ、獄盛警部が病院に担ぎ込まれた時は心配しましたよ。手柄を分けてくれる先輩がいなくなっちゃ困るって」
「何ィ?」
「冗談ですって」
 そう言ってハハハと城嶋は笑った。
「それとも今から泣きましょうか? え〜ん、獄盛警部が死にそうだよぉって」
「はん。そんなものお断りだ。お前の下手くそな演技を見るぐらいだったら実際死んだ方がマシだ」
「だったら死んでください」
「何ィ?!」
 獄盛は慌てて城嶋の顔を見つめる。すると城嶋はいつになく真剣な顔になっていた。獄盛にはこれが演技とは思えなかった。そうして沈黙していると、次第に恐怖が湧きあがって来て、獄盛は声が出せなくなってしまった。
「そうだ、死にたまえ」
 突然病室の扉が押し開かれ、吉川宗司が現れた。彼の奇妙な第一声も、獄盛を圧倒するに充分だった。獄盛は呆然と彼ら二人の顔を見比べた。吉川は城嶋の隣にパイプ椅子を持ってきて座っている。するとまた、
「死んだ方がいい、獄盛」
 と、前者二人と同じような台詞を言いながら部屋に入ってくる者があった。検死官の本山達哉だった。彼もまたパイプ椅子を部屋の隅から引っ張ってきて、吉川の隣に座した。三人とも一言同じような台詞を行ってからは無言である。獄盛には何が起こったのか理解できなかった。

 三十分もそうしていただろうか。獄盛にはそれほどの時間に感じられたが、実際にはほんの五分ほどしか時間は過ぎていなかった。重く苦しい沈黙が、その五分を三十分も経過したように感じさせた。突然、その沈黙は破られた。破ったのは吉川宗司だった。
「何もわからないようだな、やはり頭がどうにかなってしまったようだ」
 そんな事を言われたものだから、獄盛はついに口を開き声を発することが出来た。
「私は正常だ!」
「果たして本当にそうかな?」
「本当だとも。部長達こそどうかしている! 一体何故私が死ななければいけないんです?」
「本当にわからないようだな」
 本山が言った。
「分かった。仕方がないから教えてやろう。そして改心するんだ。良いね」
 吉川が言う。が、獄盛は一体何を改心すれば良いのか分からなかったため何も答えず、ただ怪訝な表情をするだけだった。

 まず聞かされたのが今が西暦何年か。獄盛は二〇〇四年だろう、と答えたが吉川は首を横に振り、教えた答えは今は西暦二五〇四年だということだった。
「何? そんなわけないだろう。二五〇四年だと? 馬鹿な。そんな未来じゃロボットでも出来てるんじゃないか?」
 獄盛は鼻で嘲笑う。
「だが事実なんだよ。世界は君が思っているほど進歩しなかったんだ。今も五百年前も、大差の無い暮らし振りさ。ただ一点を除いてはね」
「ただ一点?」
「そうだ。キリスト教の世界的伝播。今やキリスト教は世界教となっている」
「はぁ?」
 獄盛は口をあんぐりと開け、吉川を凝視している。
 キリスト教が世界教に? 一宗教がそこまで普及するものなのか? 自分もキリスト教徒ではあるが、なら俺は国の政策によって無理矢理キリスト教徒になっ たのか? 確かにあまり信仰心があるとは言えない態度ではあるが、そんな覚えは無い。自分は確かに、自ら望んでキリスト教徒になった。その記憶がちゃんと ある。そしてその時、キリスト教が世界教になどなってはいなかった。そこで一つ、訊くべき点に思い当たったので獄盛は吉川に問うた。
「いつからだ。いつからそんなことになっている?」
「二〇〇四年からだ。新聞を見なかったのか?」
 新聞、と聞いて思い出すこと。それはあの、自宅にあった二〇〇四年の新聞。あれには確か『殺物論』がどうしたとか書かれていた。そうか、あれは確かに全 てに対し平等にというキリスト教の理念に適っている。だからキリスト教が世界教化したのか。獄盛は妙に納得する思いだった。
 しかし、あれは五百年前の新聞。その新聞が家にあることが何故吉川に分かった?
「何故俺の家に五百年前の新聞があることを知っているんだ? まさかあれは部長がやったことなのか?」
「ふ、その通りだ。驚いたか?」
 ふん、と鼻で息をして獄盛は黙り込んだ。そこで吉川は話の続きを始める。
「そうして、さっきも言ったように、今年はキリスト教世界教化五百周年の年だ。そこであるキャンペーンが行われる事になった。それが『全人類信仰心大幅増幅キャンペーン』だ」
 面白く無さそうな名のキャンペーンだなと一瞬呑気に思った獄盛だったが、すぐにその意味を捉えて硬直した。うっすらと自分の立場が分かりかけたからだ。
「それで、だ。もう薄々気付いているだろうが、君もそのキャンペーンの対象の一人となった。君は何故か、十二月に入ってから様子がおかしくなってきていた ので、我々が目をつけていたんだ。そうしたら突然君の信仰心が全くと言って良いほど無くなってしまった為にこういうことになった」
「こういうこととはどういうことだ。もっと詳しく説明してくれ」
 獄盛が叫ぶようにして頼んだ。
「ああ、叫ばなくても元々そのつもりさ」
 そう言ったのは本山だった。城嶋はずっと黙り込んだままだ。
「君は十二月に入って信仰心が落ち始めた。そのことは覚えているかい?」
 また話し手が吉川に戻る。
「いいや。というかその前に、俺は元々信仰心が薄かった」
 そう答えると吉川も本山も城嶋も、三人ともが怪訝な表情をして獄盛の顔をうかがった。何事かと思い、獄盛も三人の顔を交互に見返す。
「そうか、そこまで重症だとはな。まぁとにかく、君は信仰心が薄くなってきた、そして我々が目をつけた」
 獄盛は頷き、吉川は続ける。
「そして今回の大掛かりな作戦が展開されたわけだ。君が物の大切さを理解できるように、君の部屋にあの新聞を置き――君の部屋に入るのには何の苦も無かっ たよ、大家さんも当然キリスト教徒だからね――、殺物課というものを急いでB県警察署に設けた。勿論仮にだが。そして実際に殺物事件を君に捜査させて物の 大切さを理解させようとした。だが、君は私達の思惑など考えもせずに、信仰心の欠片も見せようとしなかった。そしてここに至る。
 どうだい、案外簡単な経路だったろう?」
「……まぁ、そうだな。思ったより複雑ではなかったが……それで? 依然信仰心の高まらない俺はどうなるんだ?」
 それを聞くと吉川達三人は、さっと顔の色を変え、何か怖ろしいことを企む狂人のような目になった。そして、彼らは懐から皆が皆同じ物を取り出した。それは銀色に輝く鋭利なナイフだった。

 

第四章――クリスマス・プレゼント

 

「うわぁ、助けてくれぇ!!」
 とある病院の個室で男が叫んでいた。彼は三十分も前から叫んだり唸ったりとしきりにうなされている。しかし、どうしても目を覚まさない。
「俺が悪かった、悪かったから……これからは物を大切にするから……うわぁ!!」
「獄盛さん、獄盛さん、しっかりしてください」
 男の名前を呼びながら男の肩を揺さぶり、起こそうと奮闘する女がいた。この個室には今、彼ら二人だけがいる。
「獄盛さん、獄盛さん」
 女はそうして尚も男を起こそうとしていたが、結局途中で諦め、近くの椅子に腰掛けた。女がそうしてからも男はうなされ続けている。
 女はここの病院の看護婦で、名を釜谷祐子という。彼女は大変仕事熱心で他の患者達からは勿論、看護婦仲間にも尊敬されているベテラン・ナースの看護部長である。
 彼女が獄盛勲の看護を担当する事になったのには、ちょっとした神の悪戯的な事情がある。これは本当に、『神の悪戯』とでも形容しなければ他になんとも言い難い、奇劇的な事情だった。
 午前十時、釜谷は遅刻して漸く病院の職員用入り口の扉をくぐった。出勤途中に彼女の運転する車の前方で事故があったらしく、随分な大回りをしなければな らなかったのだ。釜谷は怪我人のことと時間を気にしつつも迂回してやってきた。そしてナース・ステーションに着いたら、部長なのに遅刻か、というように思 われないだろうかと心配していたのだが。
 通常なら七人ほどの看護婦がいるはずのナース・ステーションに、誰一人として看護婦らしい姿が見受けられない。事故か何か大勢の看護婦が必要となる急患 でも入ったのだろうかと一瞬思ったが、ナース・ステーションに来るまでの廊下や入り口付近などはいたって静かで、急患が入ったような雰囲気ではなかった。
 と、そこへ一人の男性研修医がナース・ステーションの前を通っていく。彼は確か第一外科の研修医、木津正治君だった、ということを思い出したので釜谷は彼に訊いてみることにした。
「ちょっと、木津君」
 そう呼びかけると、ナース・ステーションを少し通り過ぎていた木津は、振り向き、はいと応えて釜谷のほうへ近づいてきた。その顔は妙にウキウキとしている。
「何でしょうか?」
「こんなことをあなたに訊くのも変な話なんだけれども……看護婦の皆、どうしちゃったのか知らない? ナース・ステーションにはこの通り、誰の姿も見えないのよ」
「あれ、本当ですね。一体どうしちゃったんでしょう。すみません、僕には分かりません。……あ、でも、何か御手伝いできる事があれば言ってください、何でも手伝いますから」
「ああ、いいのよ、大丈夫。……でも皆、どうしちゃったのかしらねぇ」
「皆さん、風邪とか」
「風邪? そんなに流行ってるのかしら」
「う〜ん、どうなんでしょう。……そうだ、皆さん昨日はどうでしたか、風邪気味とかそんな様子はありませんでした?」
「ううん、そんな様子は無かったわ。皆いたって元気にしてた」
「そうですか」
 木津がそう言うと暫く沈黙が出来た。
 木津正治は背が高く痩せ型で、近寄ると釜谷は彼に見下ろされる格好になる。つまり釜谷は木津を見上げる格好になる。そうしていると釜谷は時折首が疲れる ために首だけ正面を向けて上目遣いに木津を見るようになるのだが、今もまた釜谷はそうして何か次の言葉を発しようとしていた。しかし、その言葉を遮るよう にして木津が口を開いた。
「釜谷さん」
 その声は切羽詰ったようで、急に緊張味をおび始めた。
「な、何?」
 木津の声に気圧されるようにどもりながら釜谷は問う。
「釜谷さん、僕はあなたが好きです」
「ええ?」
 釜谷は我が耳を疑った。しかし、すぐに別のことを考えた。それは、木津は仕事仲間として自分の事が好きだと、そう言っているのだという解釈の仕方だっ た。木津は誰が見ても二枚目顔だと断言するほどのハンサムで、年齢もまだ二十代半ばあたりだった筈だ。それに比べ、私はもう四十五歳のおばさん。親と子ほ ども年が離れている。どう考えても今の木津の言葉が"愛している"という意味のこもった言葉とは思えない。
 そうだ、そうに決まっているではないか、自分は何を焦っているのかと考え、釜谷は笑って言った。
「急にどうしたの? ええ、私もあなたは好きよ、真面目でちゃんと先生たちの指示通りに働いているようだし、私達ナースにも色々と気を遣ってくれているって、皆噂してるもの」
「そうじゃないんです、違うんです。……その、ですから、僕は……釜谷さんが好きなんです」
 意外なことに木津は、消え入りそうな声ではあるが反論をしてきた。
「……あはは、本当に急にどうしちゃったのよ、いつもの木津君らしくないわよ」
「釜谷さん、信じられないという気持ちは分かります。でも僕は本気なんです。本気で釜谷さんのことが好きです。いえ、恥ずかしいからこれは言わないでおこうかと思っていたんですが、やっぱり言います。釜谷さん、僕は本気で、あなたのことを愛しています」
 突然の告白に、釜谷は初め沈黙で答えるより他無かった。いくら本気で、と何度も言われても、やはり信じ難いことである。こんなハンサムで真面目な子がどうして、そんな思いばかりが彼女の頭を駆け巡った。
 『ハンサムで真面目な"子"』そうだ、私は彼の事を年齢的に言って我が子のような感じで見ている。自分の子どもから愛の告白をされても困るばかりだ。しかし彼は我が子ではない。彼が本当に自分の子だったなら、私のこれからの対応がどんなに楽だったろうと釜谷は思った。
 釜谷自身の気持ちはというと、実際まんざらでもなかった。研修医と、収入はまだ低いが、彼は優秀だからもうすぐ立派な外科医になるだろう。そうすれば釜 谷もこの年になって玉の輿が叶うわけだ。そんな収入的な面とは関係無しに考えても、彼のことは釜谷は結婚しても良いぐらいに好きだったので、これが本当な ら願っても無い話だった。しかし、どうも話が上手すぎる。信じがたい。
 それでも、いつまでも黙っているわけにもいかないので、とにかく一番気になっている所を訊いてみる事にした。
「木津君。それ、本当に本気なの?」
「はい。本気も本気、マジですよ。釜谷さん、結婚はされてませんでしたよね?」
「ええ、結婚はしてないわよ」
「ひとまず安心しました。それで、返事の方は……?」
「返事?」
「ああ、そうでした。僕も緊張して焦ってしまいまして、この通り冷や汗びっしょりで」
 それは本当で、木津は今や冷や汗で顔中汗だらけだった。前髪の黒髪にも額から汗が伝って、前髪は額に張り付いている。
「ええと、では、改めて言わせていただきます」
 そこまで言って木津はわざとらしく空咳をひとつして、続けた。
「僕は釜谷さんのことを愛しています。ですから、釜谷さんさえよろしければ、僕と付き合ってください。いきなり結婚なんて無理は言いません。暫く付き合っ て、もしその間に僕の嫌な所を見つけて、それがどうしても我慢なら無いような事だったら、遠慮なくフッてください。僕も、釜谷さんの嫌な所なんてないで しょうけど、もしあってそれが我慢ならないようなら、僕から釜谷さんをフルこともあるかもしれません。そのことを了承していただいた上で、この返事をくだ さい。もう一度言いますが、これは本気です」
 なんとちゃんとした告白だろう、真面目で誠実な木津君らしい告白だ。釜谷はそう思った。
 どうやら彼の気持ちは本物らしい。未だに信じきれぬ気持ちはあるものの、彼の態度はかなり真剣なのは釜谷にも分かる。もう騙されたと思って返事をしてしまおう、彼女は遂にそう決心した。
「ありがとう。嬉しいわ。まさかこの年になって、あなたみたいな若くて二枚目な子に告白されるなんて夢にも思わなかったけれど。ええ、喜んでお受けするわ」
 そう言い終るのを聴くと、木津の顔はみるみるほころんでいって、ついには満面に笑顔をたたえた。そして遂には感情を爆発させ、叫んだ。
「やったー!! ありがとうございます。嬉しいです。いや、信じてくださってどうもありがとうございます。もう少し疑われるんじゃないかって心配してたんですが、良かったぁ。それじゃ、付き合っていただけるんですね?」
「ええ、もちろん」
「何を叫んでいるんです?」
 釜谷の返事を確かめ、もう一度、やった、と言おうとしていた木津に問いかけるものがいた。二人が揃って声のするほうを見ると、そこにはなんと婦長が立っ ていて、こちらに向かってきていた。ナース・ステーションの角の向こう側から木津の叫び声を聞きつけてやってきたらしい。
「どうしたんですか?」
 二人の正面に立ち止まり、改めて婦長がもう一度訊く。釜谷も木津も、婦長に本当の事を話す気になどはなれないので、二人して懸命に取り繕った。それで漸く婦長に許してもらうと、
「じゃあ釜谷さん、ちょっとこっちへ」
 そう言って婦長は、先ほど来た道へと戻っていく。一声掛けてからからは釜谷にも目もくれずに行ってしまったので、釜谷はさっき自分は呼ばれたんだったか、と考え込む事になった。すると、婦長が呼んでいる声がするので、急いで、はい、と応えて駆け出した。
 ナース・ステーションの角を曲がると、暫く左右に病室のある広い廊下が続く。その廊下の真中を歩いている婦長に追い付いた釜谷は、まず訊いた。
「あの婦長、ちょっと……」
「何?」
「私以外のナースは一体、どうしたんでしょうか? ナース・ステーションには誰もいなかったんですが」
「ああ、彼女達は皆欠勤よ」
「欠勤、ですか。またどうしてですか?」
「風邪とか頭痛とか、ああ、水野さんは産休らしいわよ」
「皆そんな病気なんですか?」
「ええそうよ。それで今日は誰も来ないかと思っていたんだけれど、あなたが来てくれて助かったわ。今からあなたには個室を担当してもらう事にしたの」
 なんともあっさりした回答だった。性格のキツイことで有名な婦長が、何の愚痴もこぼさずにただ皆病欠だという説明をした。婦長まで病気になったのかと訊 きたい衝動に駆られたが、もちろんそんなことは実行できず、それに自分が今から担当することになる個室の患者様のほうへ興味がいった。
「個室ですか。どんな患者様ですか?」
「頭を強く打ったらしいの。今は意識不明で眠っているはずです」
 そういう言い方をするということは事故か。誰かに殴られたりしたのなら、『打たれた』とかいう言い方をするだろう。
「ここですよ」
 気付くと婦長は右手を上げてある個室のドアの脇に留めてあるネームプレートを指していて、今その手を下ろし、ドアをスライドさせて開け始めた。ネームプ レートには『獄盛 勲』とマジックペン書かれていた。苗字は何と読むのか分からなかった。因みに下の名前は『イサオ』だろう。
「獄盛さん、気分はいかがですか?」
 婦長がそういいながらベッドに近寄っていくので、患者の苗字は『タケモリ』と読むのだと知った。
 患者様はベッドの上で瞼を閉じ、軽く唸っていた。
「まぁ、特に何もする事は無いのだけれど、ちゃんと見張っててくれる? あなたはこれからずっと、この患者様の傷が完治するまでそうしていてくれればそれ 以外は部下のナース達にいつも通り指示を出していてくれればいいから。つまり、当分の間はこの仕事をあなたは最優先にして、他の仕事はしなくても良いって こと。簡単でしょ」
「え? あ、はい、分かりました」
「何か言いたそうな顔ね。まぁ、良いわ。あなたのそういう聞きたくても聞かないってところがあるから、あなたが今日来てくれていたのは本当に助かったわ。 というのも、あなたは治療中は勿論のこと、患者様が退院した後もずっと一生涯、あなたは彼の担当を持った事、どんな患者だったかなど、今回の事実を絶対に 口外してはいけません。これは命令です。分かりましたね?」
「は、はい。絶対口外しません」
「木津君にもよ?」
 なんと、婦長は私達の会話を盗み聞きしていたのか。これだから彼女の肩を持つナースが現れない。
「はい、分かりました」
 婦長の命令となれば守るしかない。木津君にも言えないことになったが、それも仕方ないだろう。もし言って、そのことがバレでもしたら恐らくクビにされる だろう。そうなっても玉の輿でなんとかなる、とも言い切れない。釜谷は確実性の欠いた『賭け』というものをやらない主義だったし、またそのことを婦長もよ く心得ていたので、これは全く婦長の思惑通りに事が進んだと言ってよい。
 こうして、釜谷祐子は暫くの間、獄盛勲専門のナースということになった。

 

幕間

 

 ある大学の講堂で、一人の教授が、大勢の生徒に向かって熱弁を振るっていた。彼は本文を話し始める前に、その文の題名ともなる言葉を先に口にした。それは以下のようなものだった。

『神は全てに平等である』

 そして彼は語りだす。
「聖があれば邪がある。そしてその"間"となる存在もまたある。
 分かりやすく言えば、コインにたとえることが出来る。
 コインには表裏があり、そしてそのコインの表面と裏面の間の厚さという"間"がある。
 "間"の厚さによって表面と裏面の距離が変わるのは言わずもがなだが、それは聖と邪の関係においても、いや他の全てのことにおいても言えることだと思う。
 "間"の厚さが表と裏、聖と邪の距離を左右するということは、つまり、"間"こそが全ての支配者――神なのではないか。言い換えれば、神は"間"なのではないか。
 その地点は、全てに平等で、絶対的な存在であるはずの神にふさわしい地点と言える。
 "間"という地点は数直線でも考える事が出来る。そうすることによって分かってくることがあるので、以下で少し考えてみようと思う。
 では、数直線でいう"間"とは何だろうか。それは、一般的に言えば"0"という基点だろう。基点ならどこでもいいから、別に"マイナス一"でも"七"でもなんでも良いが、ここでは分かりやすく"0"で考える。
 数直線には"0"などの基点や、右へ延びる正の領域と左へ延びる負の領域がある。正と負は、聖と邪の関係に良く似ている。これはそのまま置き換えることが可能なものだと言えるだろう。
 では、正の領域を聖と、負の領域を邪と置いてみると、これは間の神を境にした勢力図と見ることが出来る。
 そして聖の領域も邪の領域も、"0"の方とは逆の方向の端の位置は、それぞれの勢力の大きさによって決まる。
 しかし、聖も邪も、どちらがどれだけ多かれど、やはり神の支配からは逃れられない。基点が移動すれば勢力の大きさなど簡単に逆転することだって有り得るのだ。
 例えば、聖が百まであり、邪がマイナス五百まであったとしよう。それらの勢力は絶対数によって比較が出来るから、勢力の大きさはそれぞれ百と五百とな る。差は四百。邪が勝っている。しかし、基点がマイナス二百まで移動したら、それぞれの絶対数は三百と三百。等しくなった。
 だが、基点――神が、いつもそうすんなりと均衡を保たせてくれるわけでもないようだ。それは私達の暮らす世界が表している。
 歴史は戦争を繰り返してきた。その際、戦争する国同士の領土が広くなったり狭くなったり、あるいは滅ぼされたりもした。しかし、何事にも終わりは来る。 戦争は何度も繰り返されたが、その分何度も終わってきた。いや、まだ続いているところもあるぞと思われるかもしれないが、それだっていつかは終わる。地球 が滅べばそれで御終いだ。
 そうして今の均衡の取れた形を形成してきた。この世界の何処か、あるいは何かとして、基点が、神が存在しているから均衡は保たれる。
 だが、基点は動く。だから世界は戦争を繰り返してきた。基点は、神は気まぐれらしい。
 それでも、いかに気まぐれであろうと神は平等である。聖であろうと邪であろうと関係ない。全てに対して平等なのだ。だから悪人がいる。善人がいる。地獄がある。天国がある。マイナスがある。プラスがある。
 地獄と天国があると言ったが、本当にあるかどうかなどは関係ない。人がそう考えた以上、もうそれはこれらの例に当てはまると言って良い。

 では、今日はちょうどクリスマスなので、以上の考えをクリスマスに当てはめて考えてみよう。
 だがその前に、諸君らにはさっき配った、ホチキスで留めたプリントを見ていただきたい。まずは表紙を捲って目次を見てくれ」
 彼の長い前置きが漸く終わったと知ると、生徒たちは各々プリントを一枚捲って、目次を見た。因みに表紙には何も書かれていない白紙だった。目次の内容は以下のようなものだった。

 *目次*

 プロローグ

 第一章――強盗殺人事件
 
 第二章――殺物事件

 第三章――クリスマス・プレゼントの代償

 第四章――クリスマス・プレゼント


「それは私が昨日までの三日間をかけて大急ぎで作った小説だ。推敲なんてろくにしていないし、小説など書いた事も無かったから怖ろしく読みにくいかもしれない。だが我慢してくれ。
 その小説は、クリスマスに材を取った、先ほど私が説明したような神の全てへの平等について小説として作ったものだ。諸君らはそれを読み、結末部を予測 し、更にその予測した結果についての感想と、そして、見ての通りその小説の表紙には、あるはずの題名が無い。というわけで、その小説に相応しい題名も考 え、それらをまとめてレポートとして提出してもらいたい。つまり、その小説はそれで終わりではなく、"最終章"の部分が欠けているというわけだ。その"最 終章"部分は、レポート提出後に渡す。提出日は、来週のこの授業の時に集める」

 そして一週間後、生徒達はレポートを提出し、代わりに教授は小説の結部、"最終章"のプリントを渡した。

 

最終章――神の悪戯

 

 獄盛勲は病院のベッドの上で上体を起こしていた。彼は周囲を見回し、その後自分の身体を見た。窓の外では満月が 青白く輝いていて、雪も降っていた。しんしんと降る、穏やかな雪だ。どうやら自分はどこかの病院に入院しているらしいということは分かったが、はたして何 故こんなことになったのかが分からない。思い出そうとしてみる。
 すると思い出すことが出来た。坂下に刺されたのだ。そのことに気付いて、自分の腹を触ってみた。しかし、驚いたことに傷が無い。手当てをしたらしき痕跡 も、包帯も何も無いのだ。これはどうしたことかと思い頭に手を当てると、なんとそこに包帯が巻いてあった。額の上にガーゼが間に挟まれているから、傷は額 にあるらしい。しかし、腹に刺された傷はどうしたのか。
 獄盛がそうして自分の身体をいじくっていると、個室の扉がゆっくりと開かれた。扉は全開には開かれず半分ほどだけ開かれただけで止まり、またゆっくりと したスピードで、人が入ってきた。いや、人ではなかった! 入ってきたのはなんとミイラだった! 全身に包帯をぐるぐるまきにしたミイラが入ってきた。し かしおかしなことに、そのミイラは病院の入院患者が着る薄青い服を包帯の上から着ていた。ミイラの入院患者? 死んでいる者が入院するとはおかしな話だ。
 獄盛が驚いて何も言えずにいると、ミイラはどんどん部屋の中へ入ってくる。そして獄盛の方へ近づいてくる。ミイラは、よく映画で見るように上手く歩けな いようで、手を前に伸ばし前方に障害物がないかを確かめつつといった調子で、包帯で縛られているせいか棒の様に硬くなった足を一歩一歩ゆっくりと動かして 進んでいる。
 顔をよく見ると獄盛はギョッとした。ミイラにはまだちゃんと目がついていたのだ。両目ともパッチリと見開かれ、獄盛のことを凝視している。それに気付いて漸く獄盛は声をだした。
「うっ、うわぁ! な、なな、何なんだお前は!?」
 年甲斐もなく大声を上げて大慌てに慌てる獄盛だったが、ミイラが何か呟いているということには気付いた。ミイラは獄盛のベッドのすぐ近くまで来て立ち止まり、何か言っていた。言葉は聞こえないが口が動いているのでそれと分かる。獄盛は耳を澄ました。
「獄盛さん……」
 ミイラがそう言った気がしたので驚いた。
「た、けもり、さん……私……さかし……た」
 獄盛さん、私探した。そう聞こえた。俺がミイラなんか探すものか、と思った。
 それでも尚、ミイラは何か喋っている。と、突然咳き込むと、それで何かつっかえていたものでも取れたのか、急に饒舌になった。
「獄盛さん。私、坂下です」
 そうはっきりと聞こえた。坂下……坂下紀子か!?
「坂下さん? 坂下紀子さんか?」
「はい、坂下です」
 言われてみれば、目は坂下紀子の見覚えのある目だし、声も聞き覚えのある坂下紀子の声だった。この目の前にいるミイラのような格好をしたものは、坂下紀子であることに間違いは無さそうだった。
「こりゃ驚いた。これは一体どういうことだ。なんでまたそんなミイラみたいな格好して……一体どういうわけだ?」
 彼女に刺された筈だというのに、不思議と恐怖は湧かなかった。彼女は味方だ、なんとなく獄盛は自分の中でそう決め付けていた。
「順を追ってご説明します。まさかこんなことになるなんて、正直私も驚いているんですが、少なくとも獄盛さんよりは事情に通じていると思います」
 淡々と坂下は語りだす。今は女性らしい格好で足を斜めにして椅子に座っている。坂下紀子はいつもこのようにして座っていた。
「まずは、最初に起こった変化について。最初に起こった変化というのは、獄盛さんもお気づきのことと思いますが、クリスマスが二度繰り返された事です」
「ああ、そのことには気付いていた。だが俺以外の皆は別に知らないようだったから夢でも見たのかと思っていた。そうしたらその、なんだ、二回目のクリスマ スとでも言おうか。その二回目のクリスマスの日に起きたらおかしなことになっていたから、こっちが夢で一回目のクリスマスのほうが現実なんだと思っていた が」
「違うんです。どちらも現実です。でも、一回目のクリスマスの日は無かった事になりましたが」
「ん?」
「一回目のクリスマスの日……私が、獄盛さんを刺しましたよね」
「ああ、あれは現実だったのか! しかし、傷がなくなっているんだ。何故だ?」
「それは、さっきも言いましたように、無かった事になったからです」
「無かった事? それがいまいち分からんのだが……全人類を皆タイムスリップさせてクリスマスがもう一回始まったっとでも言うのか?」
「まぁ、そんなところです」
「何? そんなこと出来るのか? そうか! 今は二五〇四年だからそういう技術もあるのか」
「え、二五〇四年? 今は二〇〇四年ですよ」
「何? しかしさっき部長たちは二五〇四年だと……ああ、あれは夢だったのかな」
「夢? どんな夢でした?」
「ん、ああ、吉川部長がそこに座って、左隣に城嶋、右隣に本山が座っていた。それで皆してこう言うんだ。今は二五〇四年で、キリスト教が世界教になっていて今はあるキャンペーン中だと」
「キャンペーン?」
「ああ、確か……『全人類信仰心大幅増幅キャンペーン』とか言ったかな。それで俺の信仰心が急に低くなったからと言って俺をそのキャンペーンの対象にと目 をつけていたんだそうだ。それでいざキャンペーンになって、俺にある事件捜査をさせることになり、俺は捜査したが信仰心の増幅なんぞ出来るわけもなくキャ ンペーンは失敗。捜査陣から下ろされる事になり家に帰って寝たんだが、起きたらベッドの上で、今坂下さんのいる場所には城嶋が座っていた。それで吉川と本 山も途中から入ってきて、そんなお前は死ねと言って部長達全員がいきなりナイフを取り出して俺に刺しかかってきたんだ。それから気がついたら、無事にベッ ドで寝ていたってわけだ。まったく意味が分からない」
「……ああ、きっと悪夢でしょう。それも意図的な」
「意図的な悪夢? 誰の意図だ?」
「神、です」
「…………」
 坂下は体だけでなく頭までおかしくなってしまったのか、獄盛はそう考えて顔を歪めた。
「信じがたいでしょうが事実です。全ては神の意図したことなんです。神はサンタ・クロースという使者を使って子ども達にプレゼントを配る代わりに、こう いった遊びを、いえ、悪戯と言った方が適切ですね。悪戯をプレゼントの代償としているんです。この悪戯は自然に、いえ神の意図によりもみ消されます。人々 の記憶から消されるんです。
 そして、サンタ・クロースについてなんですが……」
「ちょっと待ってくれ。神の意図したこと? 悪戯? それでその悪戯の記憶は都合よく皆の記憶から消えるってのか。まさに神だな」
「本当に神はいるんです」
「しかし、いきなりそんなこと言われても……」
「いきなりじゃないですよ。獄盛さんは体験したじゃないですか、クリスマスが二度あったでしょう?」
「そりゃあ……夢だったんじゃないかな」
「私だって体験してます」
「そうか、そうだなぁ……確かに、坂下さんもそうだと言うんだし、それにあれは夢にしてはかなりリアリティがあったからなぁ。神はいるのか……そうか、そんな気がしてきた。
 分かった。そうと信じよう。では、続きを頼む」
「ありがとうございます。獄盛さんなら信じてくれると思ってました」
 そう言って坂下は笑ったようだった。包帯の上から見たのでは、目が笑っていること以外、口元の包帯が少し吊りあがるぐらいしか変化が無いからよく分からないのだ。
 彼女のこの笑いは、獄盛のロマンティストぶりを指してのことだろう。坂下と獄盛とは交友関係が長いので、坂下には彼の性格が分かっている。
 やっぱりこいつは坂下さんだ。獄盛はあらためてそう思った。
「次に……そうですね、神の存在を信じてもらえたので大分話しやすくなりました。
 今までの話をまとめますと、孤児院メリーフラワーで起こった強盗殺人事件に際して、私が獄盛さんを刺しました。そして神がそれを無かった事にするため に、その日自体を無かった事にしてしまい、クリスマスがもう一度始まりました。しかし何故か、私と獄盛さんには記憶が残ったままの状態でした。そして二回 目のクリスマスの日、獄盛さんがさっき自分で言ったようなこと――目が覚めたらベッドの上で、警察の仲間の方々に刺されたという悪夢を見たんでしたね。こ れは神の、ちょっとした悪戯でしょう。
 そして、今にいたるわけですね」
「……うん、分かった。全ては神の悪戯だったわけか……しかし、どうして私達二人の記憶だけは残っているんだろう?」
「それも悪戯なんじゃないでしょうか」
「ふぅん。ところで、坂下さんは何故体中包帯でぐるぐる巻きなんだい? 入ってきた時はミイラかと思ったよ」
「はい、私にも実はよく分からないんですが、一回目のクリスマスの時、獄盛さんを刺し殺したと思ったんですが、そしたらいつの間にか意識を失っていたみた いで、起きたらこうなっていたんです。全身火傷だそうで……私が意識を回復したのを知ると、刑事さんたちがやってきて事情を訊きに着たんですが、逆に私の 方が教えてもらう事になりました。何せ何がどうなって全身火傷なんてしたのか、さっぱりだったので……話によると、どうやら私は孤児院メリーフラワーで起 こった強盗殺人事件の最有力容疑者らしいんです。それを聞いて考えたんですが、もしそれが事実だったなら……そんなことをした覚えはないですし、実際して いないんですが、神によってそういう風にされたんだと思います。それで発覚を恐れた私は焼身自殺をはかった。しかし失敗し生き残る。そういうストーリーを 警察も組み立ててくると思います」
「そうか……それも神の仕業……なんて酷い神なんだ」
「いえ、そんなことはありませんよ。神は平等ですから、こういう悪戯もすれば、逆にどこかに幸福をもたらしているでしょう。誰かの幸せを実現するために は、こうしてどこかに残酷な仕打ちをしなければならない……それがルールなんです。神が神在らしめるためには、こういうルールを守らなければいけないんで す」
「……どうして、坂下さんはそんなに事情に詳しいんだ? 一体どうしてそんなことまで……?」
「……そんなことより、大事な話がまだ残っています。サンタ・クロースについてです」
「サンタ・クロース?」
 意外なものの登場に、獄盛は目を丸くした。
「ええ、サンタ・クロースは神の使者だということはさっき言いましたよね。そのサンタ・クロースですが、何故彼は人類にプレゼントを無償で配っていると思いますか?」
「それは……良い人なんじゃない?」
「違います。全く逆と言わなければならないんです」
「全く逆?」
 獄盛は一段と目を丸くした。
「はい。サンタ・クロースは、実は殺人狂だったんです。昔、まだクリスマス・プレゼントをサンタが持ってくるという習慣が無かった時代。グリーン・ランド で、サンタ・クロースという名の男による子どもを狙った連続殺人事件が発生しました。サンタ・クロースは煙突を使って家の中に侵入し、子どもを殺し、その ついでに戦利品として物を盗んでいったのです。それも殺した子どもの部屋にある玩具などをです。
 そんな事件が、何度も何度も行われました。数え切れないほどの数です。ゆうに百人は殺していたでしょう。しかし、一向犯人は捕まりません。サンタ・ク ロースという名前は、犯行現場に必ず落ちている――というよりわざと残していったんでしょうが――靴下に書いてあった名前からそう呼ばれるようになりまし た。
 そしてとうとう、希代の連続殺人鬼サンタ・クロースは、逮捕されぬまま百年が過ぎました。いくら殺人鬼でも、百年も経てば死んでいます。ついに彼は史上二度と見ることが無いだろうと思われる猟奇連続殺人事件を完全犯罪として終了してしまったんです。
 しかし、神がそれを許しませんでした。サンタ・クロースに殺された子ども達、またその家族らが許しませんでした。そして彼は償いをしなければならなく なったのです。いえ、彼自身はもう既に死んでしまいましたから、償いをすることになったのは彼の子孫です。しかし子孫に非は無いということで、神も考えま した。どうすれば良いのか……そして考え付いたのが、償いは子孫達にやらせるが、その償いをやっている最中の記憶は消すことにしよう。そう決めたのです。 それでは殺された者達が納得いかないのではないかと思いますが、確かに最初はそうでした。しかし、記憶は残らなくても身体的疲労は蓄積されます。それに、 子孫達に特にそれ以外の罰は与えない代わりに、特に幸せな生活も送らせないということで殺された者達も治まりました。
 そういうことで、今も尚、サンタ・クロースの子孫は各地でプレゼント配りを無意識下で行っています。勿論子孫の数は時代が進むに連れてだんだん増えてきましたから、世界各国にサンタ・クロースの子孫はたくさんいます。ここ日本にも何人か……」
 それで話は終わったものと思い、獄盛が感想を言おうと口を開きかけたところ、どうやら話はまだ終わっていないらしいことに気付いた。坂下が獄盛を見つめ、口を開いて何か言おうとしている。
「その内の一人が、獄盛さん、あなたです」
 少しの間、何の事を言っているのか分からなかった。しかしすぐに見当がついた。
「俺が、サンタ・クロースの子孫?」
 信じがたいことの連発だ。
「はい、そうです。クリスマスの朝、起きてみると疲れていませんか?」
「ああ、確かにそうだ。そう言われてみるとクリスマスの朝だなぁ、疲れがでるのは。その数日前から嫌ぁな気分にもなっているんだが、体がそのことを覚えているのかな」
「きっとそうでしょうね。二十四日イヴの夜にクリスマス・プレゼント配りを終えて、体が疲れているんです。その疲れは、さっきも言いましたように蓄積されていきますから」
「ふぅむ、そういうわけだったのか」
「そうなんです。それで……私は止めようと思ったんです。図々しいかもしれないけれど、獄盛さんを解放してあげようと思ったんです。それでどうしたら良いかって考えた結果、一つ思いついたんです。獄盛さんを殺せばいいと……」
「何!?」
「すみません。勝手にそんなこと決めて、勝手に刺してしまって……こんな時に言うのもあれなんですけど、私、獄盛さんのこと好きなんです。だから、解放してあげたくて……」
「そうか、そういう理由で刺したのか。分かったよ。その気持ち、ありがたく受け取って置こう」
「え、じゃあ、許してくれるんですか?」
「ああ、許すとも。俺だって君のことは好きだからね」
 獄盛は微笑む。坂下もどうやら笑っているようだ。
「ところで……サンタ・クロースの話はそれで終わりかな?」
「……はい」
「じゃあ訊くが、どうして坂下さんはそんなに事情に詳しいんだ? それがさっきから不思議でならないんだよ。まさか、全部作り話っていうんじゃないだろう。今日はエイプリル・フールじゃないんだし」
「ええ、作り話なんかじゃありません。今までの話は事実です。……いえ、史実といった方が良いかもしれません」
「史実?」
「はい、ログという歴史上の事実です」
「ログという歴史?」
 また信じがたい話か、獄盛はうんざりしていた。
「はい、ログは知っていますよね。コンピュータ操作の記録なんかのことを言います。 つまり、現実の歴史ではない、コンピュータ上の歴史での事実、とそういうことです」
「んん? わけが分からん。もう少し分かりやすく説明してくれ」
 獄盛は唸った。
「分かりました、ご説明しましょう。どうして私はこんなにも詳しいのか……そんなことは簡単です。私が全てを操る、神なんですから!」
 獄盛は声も出ない、口あんぐりの態だった。驚きの連続、連続、連続だ。
「驚きましたか。そうでしょうね、何せ目の前に人間の形をして神様が座っているなんて誰も思いませんものね。
 これは私の仮の姿です。本当の坂下紀子は存在自体をデリートしました。生かしておく理由はありません。その代わりに、消えた坂下のキャラクターを神が 使ってこうして姿形を得たわけです。これはライフ・シミュレーションゲームなんですよ。あなた達はみんなそのゲームの登場人物に過ぎません。しかしあなた 方はそんなことは露知らず、立派な人間と思い込んで生活しているんです。私の作った地球というデータの星でね。
 しかしあなたも、坂下も、容姿から人格、全てを私が作ったものなんですよ。それ以外の人間全ても同じです。これは二五〇四年最新のライフ・シミュレー ションゲームなんです。そういうかなり細かい設定までが出来る究極のライフ・シミュレーションゲームなんですよ。地球という名も私が考えたんですが、ゲー ムの登場人物が考えたということにしておきました。日本やアメリカの国の形や名前も、海の広さも陸の広さも形も、何もかも私が作ったんです。
 私以外他にもプレーヤーは多数いましてね、このゲームは宇宙というオンラインで繋がっているんです。私は太陽系と言う名前のサーバーでプレイしていま す。そこに地球を作りました。ここは太陽系の中でも最高のポジションでしてね、ラッキーでしたよ。太陽系の他の惑星では太陽からの位置関係上生命を育む事 が難しいんです。それでも全然無理ってわけじゃありません。でないとプレイのしようがありませんからね。それで、我が地球から見て宇宙人という、UFOと いう奇抜なものが出来たんです。他のプレーヤーは、UFOを使って私の地球を覗きに来ているんですよ。ただ時々悪質なクラッカーがいましてね。UFOに見 立てたウィルスで我が地球を侵略しようとしてくるんですよ。それが時々あるUFO飛来の噂の真相です」
 獄盛は返す言葉が見つからない。ただただ、呆然と聞き入るばかりだ。
「それで、今回はクリスマス・イベントがあったんです。クリスマス・イベントというのは、まず地球のどこかで、神が作っていない善事、もしくは悪事が発生 するんです。どちらかは分かりません。通常は神である私が、善事も悪事もイベントを考えてちゃんと平等に作っていきます。現実は二五〇四年だと言いました よね? だから今はキリスト教が世界教になっているんです。これは現実で本当なんです。全てに平等に……その理念がこのゲームにも埋め込まれていまして、 善事を行うには悪事をどこかで起こす必要があるんです。それを神――プレーヤーである私が交互に作って均衡を保ちつつイベントを作っているんですが、クリ スマス・イベントは特別で、ポイントの高い善事か悪事が勝手に発生するんです。このイベントは、ゲーム会社の方が地球視察に来て、考え出したイベントなん です。これは他の惑星でも行われていて、キリスト教世界教化五百周年記念のキャンペーンなんです。『全てを平等にキャンペーン』です。ですから、私達プ レーヤーは、その善事か悪事に対して、速やかに逆のイベントを作り、対処しなくてはなりません。しかし、対処してなお、更に善事と悪事を発生させることが 出来たら、ゲーム会社から特別ポイントが貰えるんです。ポイントは、貯めるとゲーム内で色々なことが出来るようになります。例えば、今私はデリートした坂 下紀子のキャラクターを使っていますが、これは一時的なもので時間制限があります。そうじゃなく、ポイントを貯めれば、神自身のキャラクターを作って降臨 させることも出来るようになるんです。そんなことが出来たら、神は私なんですから、現実世界と同じような世界で、好きなことがし放題なんですよ。最高じゃ ないですか! ですから私もポイントを貯めるために更なる善事と悪事を作っておきました。少々無理があるかと思ったんですが、なんとか成功しました。それ は、両方ともこの病院内で起こしました。まず善事のほうは、あなたの担当の看護婦さんと、第一外科のハンサム研修医に結婚の約束をさせました。もちろんこ のまま結婚させます。対して悪事の方はというと、獄盛さん、あなたに向けて行ったんですよ。見たでしょう、リアリティな悪夢を? あれです。悪夢とは言え 夢だったので、あまりポイント――これはイベント・ポイントと言って善事、悪事をするたびにプラスされたりマイナスされたりしますが、これは零に保ってお かなければならないんです――も減らないかと思っていたんですが、案の定、足りませんでした。善事の方が質的に良いほうが特別ポイントも多くもらえるので 賭けてみたんですがねぇ……失敗しましたね。 数をこなせばもっともらえるんですが、イベントを作って行うのも大変でしてね。何せ作る部分がかなり細かく 出来ていますから、一日に二、三イベントが限度です。
 ……おっと、もうそろそろ時間のようです。それじゃあもう消えます。最後に悪事を一つしてからね。そうでないと、均衡が保たれませんので」
 坂下は、いや、神はニヤリと歯を出して笑い、透明人間のように消えていった。
 驚くべきことを聴いてしまった。獄盛は最後まで口をポカンと開けたまま、何も言えず終いだった。
「最後の悪事……」
 そうだ、神の言っていた<最後に悪事を一つ>というのはどんなことだろう?

 クリスマス・イヴの夜。後一時間もすればクリスマスだ。空には青白い光を放つ月が佇み、しんしんと雪が降り積もる。
 そんな夜の空に、真っ赤な服、真っ赤な帽子、白いもじゃもじゃした顎鬚と髪。がっしりとした体を持った男が一人、風に長い顎髭をなびかせながら飛んでいた。
 彼の乗るソリは、二匹の真っ赤な鼻をしたトナカイによって引っ張られている。
 トナカイは勿論、男のほうも何も言わず、無言のままに手綱を振るって走っている。ソリの積荷はまだまだたくさんある。
 今年もこの男――獄盛勲は、子ども達の家へプレゼント配りをしているのだ。
「体が信じられないスピードで動いてくれるが、こりゃ大変だ。こんなこと知らなかったってだけでこんなにも疲れが違うものなのか」
 独りぼやく彼には意識があった。神が残していった悪事とは、彼の記憶だった。

(了)


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