絶望的自己陶酔方法論考


 自分を信じるにはどうすれば良いだろうか。私はそもそもこの疑問を発することさえ怠っていた。
 いや、そんなことは無理だと諦めていた。
 しかし、よくよく考えてみれば、それは全然証明などされてはいなかったのだ。
 可能性が残されているのに、私は勝手に諦めていた。
 だが、その方法をついに発見した。
 それは、自分で自分を肯定しなければ自己保身が為せない状態にまで、自らを追い込むというものだ。
 たとえば、俗人の反感を買いやすい殺人などの行為を、大々的に行うことによって、より多くの人の蔑視を誘う。それによって自らを誘導的に差別させ侮蔑さ せ、扱き下ろさせる。そのような苦しい状況を自ら作り上げ、そして最早、自分以外に自分を認めてやることのできる存在を無くしてしまえば良いのだ。
 そうすれば、そこまで追い詰められれば、唯一信じることの可能な「自分」に「自分」を認めさせることができるはずだ。
 自分は自分なのだから、自分の肯定を自分は簡単に受け入れられるのではないだろうか。
 しかし、以上の理論の実行は、実際問題としてとても難しいだろう。
 それは、革命級の大量殺戮でも行わなければ無理だろうが、しかし皮肉なことに、それほどの偉業を為してしまうと、逆に英雄として祭り上げられてしまう危険性がある。
 人々は英雄のなんたるかを深く考えたことが無い。故に、無闇に英雄でない人間を英雄として祭り上げてしまう。私もその被害を受けてしまうかも知れぬのだ。
 だが、英雄的な方法ではなく、殺人鬼的な方法で行えば、それは避けられるかもしれない。
 つまり、権力者として殺戮を行わせるのではなく、自らの手で、誰の眼をも背けさせるような、慄然たる方法で、慄然たる標的を、ぶち殺す。
 たとえばそう、それは、家族とか……友人とか……。
 できれば、血の繋がりがあったほうが反感を買いやすいだろう。
 では次に方法だ。私はそれにはやはり、果物ナイフが良いのではないかと思うのだ。
 何故かと言うに、それが最もグロテスクな感触を味わうことのできる凶器だと考えられるからだ。
 果物ナイフは、その理念として、先端を安全のために丸くしているものが多い。それを用いるのだ。それは切っ先が丸い分、切っ先の鋭い他のナイフでは味わえない感触を味わうことができる。
 すなわち、先端が鋭くなっていないと、ナイフをスムーズに人体に刺し込むことができない。ということは、かなり強い力で押し込んで、「刺す」というより も「差す」という方法をとらなければならない。その時、通常ならば皮膚が切り裂かれて、それによって出来た隙間に刃全体を潜り込ませていくところを、果物 ナイフではそうはできず、まず、押し付けることにより皮膚を極限まで張り詰めさせ、これ以上は皮膚を伸ばすことによってナイフの侵入を阻止することが出来 ない、という状態にまでおいやってから、プツリ、と突き破る。そして、引き裂かれたその隙間に刃を差し込むことになる。
 その、プツリ、の瞬間。この時の感触が想像しただけでも空恐ろしいものを感じる。
 これを実際にやったらどうなるか。
 もしかすると発狂してしまうかもしれない。
 だが、「発狂するかもしれない」と思うほどでなければ意味が無いのだ。それぐらい残酷な事を自らが行わなければ、絶望は訪れてはくれないだろう。
 しかし、完全なる絶望に追いやられてしまってもいけない。
 完全なる絶望と、希望がまだある、という間。その絶妙な一点に、上手く着地せねばならない。そうしなければ、「自分で自分を肯定しなければ自己保身が為せない状態」にはならないだろう。
 もし失敗して、実際に発狂してしまったとしても、その時はその時だ。
 発狂もまた、一つの自己陶酔法であると思う。しかしそこには、自我の不在という問題がある。だがまぁ、発狂してしまえば問題という概念も無くなるのだろうから、問題でないといえば問題でない。
 しかし、人間として生まれてきた以上、死にたくない、生きていたい、という思いが、ほぼ絶対的な優先事項になるのと同じように、自我を保ちたい、自我を保ちつつ自分を信じたい、と、そう思ってしまうのである。
 故に、私は発狂するわけには行かない。

 だが、やはりこれは大した問題ではないだろう。
 私は発狂などしない。
 その程度で。
 家族や友人を惨殺する程度で。
 発狂などしてたまるものか。

<了>


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