栞Default



     

 あれは、黒山総合病院での残虐な大量殺人事件が解決して間もない頃。疲労ばかりはどうにもならず、仕事は臨時休業を取って五日ほど経った日の昼前の事だった。
 前述した事件に関して澄沢君が警察にちょっとした助言をしたのが、どうしたことかマスコミにもれて澄沢君の名前が紙上に乗り、『明智小五郎現る』などと 謳われ数名の記者達に追い回されたのも事件後三日間で次第に弱まっていき、漸く私達も心身共に休まる一時が得られていた。
 彼も私も、体力的にも精神的にも仕事に集中できるほどに回復してきていたので、そろそろ仕事を再開しようかと彼の事務所で言い合っていた時、暫く聞いて いなかった音が私達の鼓膜を刺激した。事務室の電話が来訪者を知らせる音。私が動き出すよりも早く、澄沢君が自分のデスクから立ち上がり玄関に向かった。 普段の、いわゆる接客は私の役目なのだが、事件後の疲労を未だに気遣ってくれているのだろうか。私は少し遅れて、彼の後を追うようにして事務室を出る。
「どのようなご用件ですか?」
 扉を開けてからそう訊く澄沢君の声と後姿が、私の聴覚と視覚それぞれに届く。
「あの、イエローページの広告を見て、ここなら頼めるかなって思って来たんですけど……」
 おずおずと応えるのは、中年の、小奇麗な服装をしたロングヘアの女性のようだ。服装に見合った中々の器量も持っている。
「ああ、仕事の御依頼ですね。どうぞ、中でお話を伺いましょう。……ああ、ご心配なく。相談料なんて物はとりませんから」
 扉を開けたときからある――もしくはもっと前からそうだったのかもしれないが――女性の不安げな表情が去らずに残っているのを見て、澄沢君は微笑を見せながら最後の言葉を付け足す。
「はぁ、では……」
 それでもまだ不安げな表情は消えなかったが、女性は中へと入ってきた。その時、女性と私は目が合った。すると女性が、私を見つめながら軽く頭を下げてきたので急いで私もお辞儀した。

 女性が靴を脱ぎ丁寧に揃えるのを待ち、私達三人は応接室へと入った。澄沢君は入り口側のソファを依頼人の女性に勧め、自分は向かい側のソファに座る。すると澄沢君が目で何かを訴えてくる。お茶だ。私は奥の台所へと向かう。
「ではまず、御依頼を御引き受けできるかどうかをまず決めたいので、どういった内容の御依頼か、お話していただけますか」
 二人の座るソファと台所との距離はさほど遠くも無く、ドアなどの隔たりも無いので彼らの会話は筒抜けとなり私の耳にも届く。
「はい。えっと、さっきもちょっと玄関で言ったことなんですけど、イエローページの広告に書いてあったことを見て、ここならこんなことも頼めるかな、と思って来させていただいたんですけど……」
 またも彼女の口から出ることとなった『イエローページの広告』。それはもちろん、ここ澄沢探偵事務所の広告のことを指すのだろう。彼女が何故、そのことを二度も強調するのか。その広告には、大体こんな文句が書かれている。

私立澄沢探偵事務所 пF〇三−××××−△△△△ 代表者(所長):澄沢清人 (現在総人員二名 含所長) 不倫調査・素行調査・盗聴器調査・行方調査等、一般的な調査依頼や、特殊なものでも、ものによっては御引き受けいたします。※その場合の料金は要相談。

 『特殊なものでも、ものによっては御引き受けいたします』
 今回やってきた女性はきっとこの、決して上手いとは言えない表現の文章を見咎めてやってきたのだろう。一般的でない、特殊な依頼。彼女の持ちかける依頼はきっとそういうものに違いない。
「それで、その……そんなことか、と思われるかもしれませんけれど……」
 その次の言葉が中々出てこないので、澄沢君が優しく合いの手を出した。
「そんなことを気にすることはありませんよ。まぁ、御引き受け不可能なこともあるにはありますが、話すだけ話してみてください。お受けするかどうかはそれからですから」
 そこまで話したところで、私は御茶を一つ、御盆に載せて運んでいった。女性は軽くお辞儀を返しながら私を見つめる。さっきの玄関でもそうだったが、なん だか意味ありげな視線のように感じた。私はそんな気を振り払い、澄沢君の隣に座す。その頃には女性の視線は自分の足元に転じられていた。
「ええ、ではお話します。実は……」
 またそこで、私の顔を見てから話し始める女性。気にはなるが、ただ見られているだけなのでなんとも言えない。ここで、「なんなんですか、私の顔に何か付いてます?」と言えるほど私は気が強くない。

 澄沢君が質問を挟みながら聞きだした彼女の話を纏めると、以下のようになる。
 彼女の名前は森崎恭子。彼女は一人娘の栞ちゃんを生んだその年に、夫誠一氏を交通事故で亡くしている。それからの彼女はシングルマザーで頑張っている が、女手一つでは娘一人育てるのも大変だ。母親としてろくに構ってやることも出来ず、夜の商売もしなければ生活費を稼げない状態だった。それでも栞ちゃん が小学校に入学した年から渡している、一ヶ月五百円のお小遣いは変わらずに続けられていた。
 そうして十五年が経過した。栞ちゃんは毎月のお小遣いを本代に費やす文学少女に育っていた。母親が相手をしてくれないので、本と共に時間を過ごすことに なったのだろう。最初のうちはテレビで時間を過ごすこともあったが、母親である恭子さんが、テレビなんかよりも本を読んだ方が賢くなれる、と言って栞ちゃ んには暇があったら本を読ませることにしていたのだ。
 栞ちゃんは中学三年生になり、高校受験を控える受験生になった。受験生ともなると、色々と神経過敏になる。栞ちゃんもそうだったのだろう。彼女は、推薦 入試の一つさえ受けることなくこの世を去った。享年十五歳。若すぎる死は、自ら招き寄せたものだったという。自室のカーテンレールにタオルを通して首を 吊っていたのを、仕事から帰った恭子さんが発見した。

 お母さん、先立つ不孝をお許し下さい――

 大学ノートを破りとった切れ端に、それだけ書かれた遺書らしきものが彼女の部屋の机の上で見つかった。筆跡は間違いなく栞ちゃん本人のものだと恭子さんは断言する。
 しかしそれ以上の文章は書かれておらず、自殺の理由はそれだけでは分からなかった。
 それから一週間後。葬儀の場で栞ちゃんの自殺の理由が分かっていない、何か知らないかと恭子さんに訊かれたクラスメイト数名は、その場では何も答えられなかったが、悩んだ末に森崎さんの住むアパートを訪れた。
 生前の森崎栞ちゃんと仲の良かったクラスメイト数名は、栞ちゃんの自殺はいじめによるものではないかと話した。栞ちゃんは、父親が居らず母親は水商売を している、という理由で、クラスの不良グループにいじめられていた。それは時に暴力にまで及び、栞ちゃんは必死にそれに耐えて学校生活を送っていたそう だ。
「ごめんなさい!」
 クラスメイト達は、泣きながら謝ったという。
「まさか自殺しちゃうなんて、ううんそんなの理由にならない。止めることが出来なくて本当にごめんなさい」
 そんな彼女達に恭子さんは別に怒る風でもなく、それどころか感謝した。わざわざ教えに来てくれてありがとう、と。
 これで自殺の理由は分かった。恐らくいじめの苦痛に、更に受験勉強の苦痛までもが上乗せされたことによる過剰な精神的負担が原因だろう。「母親たる私がそのことに全く気付けなかったことが悔しくもあり、情けない」涙を流したのはクラスメイト達だけではなかった。
 これで自殺の原因も分かり、別に探偵に相談するようなことは無いように思える。しかし――

「栞が、私に何も言わずに自殺するなんて考えられないんです!」
 恭子さんは悲痛な目で訴える。
「ろくに構ってやれなかった私が言えるようなことじゃないかもしれませんが、分かるんです。偉そうな事を言うようですが、母親の直感みたいなものがそう訴えてくるんです。
 あの子は、大事なことはなんでも相談してくれました――いじめのことは話してくれませんでしたが――私が全然母親らしいことはしてあげられなかったの に、あの子は私の事を理解してくれていて、私を心配させないようにと気遣ってくれてもいたんです。そんな子が、私に何も言わずに自殺するなんて考えられま せん」
 彼女の目には薄っすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「しかし、一応遺書はありますし……」
 澄沢君が、調査の参考にと言って恭子さんから借り受けた、栞ちゃんの遺書と思しき大学ノートの切れ端を眺めながら質問を挟もうとする。が、恭子さんがそれを途中で遮るように言葉を重ねる。
「ええ、ええ。でもそんなもの遺書の内に入りません。それで私は思ったんです。きっと他にちゃんとした遺書があるんじゃないかって」
「それで、お探しになったんですか?」
「はい、探しました。栞の部屋は隅々まで。でも見つかりませんでした。だから他の部屋も調べたんです。トイレの中まで、探したんですよ。それでも見つかりませんでした」
「……本当に何か、ちゃんとした遺書を他に残しているとお考えですか? もしかすると無いのではないですか? 栞さんがあなたの仰るような方だったなら、もっと分かりやすい場所に遺書を残していそうですが」
「きっと、栞は自分をいじめた子に迷惑をかけたくないと思ったんだと思います」
「いじめた子に迷惑を?」
「はい。遺書としてそのいじめられたことを書き残したら、栞をいじめた子達が攻められる。そしてまた自分みたいにいじめられることになってしまうかもしれ ない。それを避けようと、栞は考えたんじゃないかと思うんです。あの子は、いじめられても決していじめ返すような子じゃありませんでした。これは私にだっ て分かります。本当に優しい子だったんです。なのに……
 遺書はあると思います。でも、なるべく見つかりにくくしているんだと思うんです。あの子、推理小説が好きでしたから、そういう、遊びみたいなことをした くなったのかもしれません。それに、発見が遅れれば警察は自殺で処理して捜査は終了になる。それ以降に遺書が見つかれば、その処理は私の自由でしょう?」
 恭子さんが沈痛な表情でそう訴えるので、澄沢君は背凭れに凭れかかり、
「わかりました。では、あなたは私達にその遺書を探してくれと言いたいのですね?」
「はい、そうです。お願いできますでしょうか?」
 いくらか落ち着いた様子の恭子さんが、不安げな表情に戻って訊き返す。
「ええ、御引き受けしましょう。ただし、見つかるかどうかは分かりませんよ」
「はい、それは重々承知しています。どうぞお願いします!」
 深く頭を下げる恭子さん。また髪が舞う。彼女の、一人娘の最後の言葉を聞く為に必死な様子がこちらにも伝わってくる。栞ちゃんにあまり構ってやれなかっ た事を本当に後悔しているのだろう。そしてせめて、最後の言葉ぐらいは見つけてやりたいという願いがある。果たして本当にあるのかどうか、その時の私には 彼女のような確信を持つことは出来なかったのだが。親子の絆とは、そういったことまで無言で伝えることが出来るのだろうか。


     

 森崎恭子さんのアパート、ヴァージン・ハイツは一室三部屋で構成されており、森崎さんの暮らす二○三号室は一つは居間兼台所、もう一つは御風呂、そして後一つは栞ちゃんの部屋として使われている。恭子さんはいつも居間の方で寝るのだそうだ。
「ここが栞ちゃんの部屋ですね」
 そう言いながらドアノブに手をかける澄沢君。私達は相談を受けてからすぐ、森崎さんのアパートへ伺い調査を始めることにしたのだ。ここまではタクシーに 乗ってきた。事務所の外に待たせてあると言った時は私も澄沢君も少なからず驚いた。相談が長引くとは思わなかったのだろうか、と。
「はい」
 恭子さんの返事とほぼ同時にドアが開かれる。
 部屋の中の印象はというと、私は一般的な女の子の、可愛いお部屋、を想像していたのだが、その想像は半分は当たっていたと言えよう。しかし半分は予想外 だった。予想できないことではなかった筈なのだが。後に澄沢君にこの事を話すと、私とは全く逆の予想をしていたのだと言う。
 部屋の内部は掃除が行き届いており、つるつるぴかぴか、という形容をしたくなるほど磨き上げられていた。
 内装は――窓際に置かれているベッドの掛け布団はピンク色の可愛いフリル付きで、カーテンもピンクと、結構一般的な女の子を連想させたが、それとはまる で不釣合いな木製の大きな本棚が部屋の真中に二つ、でんと置かれていた。勉強机にも色々な小説が置かれており、学校の教科書類は足元に詰まれているという 優先順位だ。
「ほぉ、これは凄い。これだけ持っていたら文学少女と呼ばれてもおかしくありませんね」
 澄沢君が感慨深げに言う。彼もまた本好きであるため、こういうものを見るのは好きなのだ――こういうもの、というのは勿論本棚や机の上の小説のことである。
 そんな澄沢君の様子を見て、微かな笑顔を見せる恭子さん。死後とはいえ、娘の事を「凄い」と褒められるのは嬉しいのだろう。しかし澄沢君はそんなことより本棚に目が行っている。
「あ、そうだわ。調査のほう、どれくらいお時間かかりますでしょうか?」
 突然思い出したように恭子さんが訊く。私にはなんとも答えられなかったので、澄沢君の顔を見る。二人の女性に見つめられ、少々たじろぐ様子を見せた彼だったが、すぐに立て直し、
「そうですね。だいたい……」
 そこでアナログの金縁腕時計――千円ぐらいの安物――を見てから続ける。
「今日のところは、一時間くらい御邪魔させていただいてよろしいでしょうか?」
「ええっと、一時間と言うと……」
 彼女は腕時計をはめていなかったので澄沢君が応える。
「二時ぐらいですね」
 無論午後のだ。
 それを聞くと、恭子さんは「分かりました。ではお願いします。私は居間におりますから」と言って出ていった。
「アガサ・クリスティにドロシー・L・セイヤーズ……バロネス・オルツィ。ここは海外女流作家の段かな? それもミステリだ」
 恭子さんがいなくなり、本棚が見放題の状態になったのを良いことに、澄沢君は早速本棚の《本達を観賞》し始めた。ちらっと私を見ながら澄沢君が言う。私 もまた推理小説が好きなことを彼は知っているから、見ないのか、とでも言いたいのだろう。本好きの彼にとって、これほどの本を目の前にして《観賞》しない のは勿体無いことなのだ。せっかくなので私も近寄って見ることにする。私は澄沢君のように「本が好き」というよりも「読書が好き」だ。彼のように《観賞》 まではしないが、どんな本があるのかは気になる。
「アーサー・コナン・ドイル、エドガー・アラン・ポー……こっちは海外の男性作家らしいわ」
「へぇ……あ、あ!」
 何かが落ちる音。続いてそれが滑る音。
「ああ〜」
 澄沢君が、何か本を見つけて――おおよそ自分が欲しかった絶版本かなにかだろう。この本棚にはかなり古い本も多くある――眼鏡のズレを直していた手を伸 ばそうとした時、指が眼鏡にひっかかり眼鏡が落ちた。そしてそれを自分の足で蹴ってしまい、本棚の下に滑り込んでしまったのだ。そんな一連の動作が、澄沢 君の「あ」で表された。
「どうしました?」
 恭子さんが澄沢君の叫び声を聞いて駆けつけてきた。
「いえ、なんでもありません。眼鏡を落としてしまっただけです」
 彼はそう言い終わると、本棚の下に手を突っ込んだ。少しして、
「おや?」
 そう言って彼が本棚の下を覗き込んでから取り出したのは、彼愛用の黒縁眼鏡ではなく、皮製のブックカバーがはめられた一冊の文庫本だった。
「眼鏡はどうしたの?」
 私が訊く。すると彼はああと言って再び手を滑りこませ、今度は自分の眼鏡を取り出し、掛けなおした。
「あら、そんなところに本があったんですか。全然気がつきませんでした」
 恭子さんが近寄ってきて澄沢君が取り出した本を見るので、私も同じようにする。
「新しいですね……いや、物は古いが」
「え?」
 恭子さんが不思議そうにする。私もそれは同じだった。新しいのに古いとは一体どういうことか。
「どういうこと?」
 私が訊いた。澄沢君は一度こちらの方を向くが、すぐにまた本棚へ視線を戻す。
「ほら、埃を被っていない。この本棚の下へ置かれたのは最近だよ」
「置かれた?」
「ふふ。鋭いね、桜さん」
 私は意味も分からないまま、ただちょっと褒められたことが嬉しくなって、ほころんだ口元を隠すのに必死でなんとも返事が出来なかった。
「その本が娘の遺書なんですか?」
 恭子さんが勢い込んで問う。私はまだ口元が引き締められなかった。
「え、いや、それはまだ調べていないのでなんとも言えませんが。まぁ、居間のほうでお待ち下さい。二時頃に纏めてご報告します。あ、いや、それとも何か見つかったら逐一ご報告しましょうか?」
「ああ……いえ、後で纏めてで結構です。どうぞよろしくお願いします」
「分かりました」
 恭子さんは深々と頭を下げ、澄沢君も軽く頭を下げて返す。恭子さんはそれでまた居間に戻っていった。
「さてと、これは何故こんなところに置いてあったんだろう?」
「置いてあったってどういうこと?」
 私がまた訊く。漸く私の口は平生を取り戻していた。
「う〜ん、まぁ、勘だけど……」
 彼は自信が無いとよく『勘』という言葉を使う。しかし彼の『勘』は割合よく当たるから、私は興味を持って聞いた。
「何?」
「置いてあった形がね、奇麗にこっちを向いて、まるでこっちからこの下に置かれたようだったんだよ」
「ふぅん……それで?」
「それで、だね。さっきも言ったように、この本の表面は埃を殆ど被っていない。それに対し、裏面は……」
 彼は本を裏向ける。
「この通り、埃がたくさんくっついている。そして本棚の下を見ると、周りは埃がたくさん積もっているのに対し、ちょうどこの文庫本の形の分だけ誇りが薄く なっている。これは滑って本棚の下に入り込んだのではなく、誰かの意思によって随分以前に置かれた事を示している、と思う」
 本棚の下を覗くと、たくさん溜まった埃があるのがまず眼に留まった。その中で一箇所だけ矩形の後が残っているのが確認できた。
 彼の推理過程は、埃が溜まるほど長い間放置されていた本棚の下に、物――今回の場合は一冊の文庫本――を置く事によって周りの埃とは厚さが変わって文庫本型の跡が残るほど、また長い間文庫本は放置されていた、というものだろう。
「ほんとだぁ、名推理名推理」
 相変わらず自信無さげな発言の仕方だったが、私は感心して顔の前で小さく拍手した。
「そして更に興味深い点がある」
 少し恥ずかしそうに笑みをこらえて澄沢君は続ける。
「え、何?」
 彼はそれまで眼鏡を拾うためにしゃがんだままだったが、そこですっくと立ち上がり、私に文庫本を差し出してきた。
「このブックカバー、見たこと無い?」
 私は少し考えてから、
「ううん、見たこと無いけど……」
「そう? まぁ、十年も前のミステリ・フェアでやってたやつだしね……」
「ミステリ・フェア?」
「そう、新流社文庫のミステリ・フェアでね、文庫本のカバー見返しの角に付いているマークを十枚集めて応募すると、応募した人全員にこういった何色かのブックカバーの内一つだけ貰えるってやつでね。僕もそれに応募して、これはピンクだけど、僕は赤いのを持ってるよ」
「へぇ、そうなんだぁ。私そういうのに興味ないから帯とかすぐ捨てちゃってたから気づかなかったのかなぁ」
「え、そうなの? 勿体無い。帯捨てちゃってるのか。それも本の一部なのに」
 澄沢君は悲しい顔をする。そんな付属品にまで愛着を抱いていたとは知らなかった。
「それで、そのブックカバーがどうかしたの?」
「ああ、そうそう。僕もこれと色違いの同じものを持っていたから気付けたけれど……この表紙の彫られている文字、余計なものがあるんだ」
「見せて」
 私は自分で見極めようと思い、澄沢君から文庫本を取り、見てみた。

SHINRYUSHA

Default

「栞……って、栞ちゃんの名前?」
「さぁ、どうだろう? それとその下のDefaultも、初めからあるものじゃないよ」
「ああ、じゃあ『栞』っていう名前と、なんだかよく分からないけれど『Default』の二つが書き足されているのね」
「う〜ん、その『栞』だけど……ちょっと貸して」
 言われて、私は澄沢君の手に文庫本を戻した。
 彼は、ブックカバーの表紙の文字を暫く見つめていたが、それをやめると今度は文庫本の天井部分を目を細めて観察しだした。本を縦に曲げてみたりしている と、何かを見つけたようで細めていた目を普段の大きさに戻したのが分かった。そして今度は本の天井部分のどこかに両手の指を当てて、どこか特定のページを 開こうと苦心している。
 十秒ほどかかって、彼の苦労は実を結び、どうやら目当てのページを開くことに成功したらしい。微笑と溜息とでそれと分かった。
 彼は開いたページに、本に元々付いていた紐の栞を挟みこんで閉じた。
「何か見つけたの?」
「え、う〜ん、さてどうだろう。当たっているのかどうかが分からないから何とも言えないなぁ」
「確認は出来ないの?」
「そうだねぇ。じゃあ、もうちょっと調べたら森崎さんの所へ行こう」
 それから暫くの間、彼は色々な本を取り出してカバーを外したり、パラパラ捲ったり、時には読み込んだりと色々やっていたようだった。私は私で彼の観察ば かりしているわけにもいかないので、気になった本を取り出して読んでみたり、机の上の本を見てみたり、ベッドの下を覗いてみたりすることもあった。私がそ んな事をしていても、澄沢君は何か読書に没頭しているようだった。
 それからも十五分ほどそうしていると、彼は大きな溜息を吐きながら立ち上がり、
「じゃ、そろそろ行こうか」
 そう言うと彼は、文庫本を手に持ったまま、そそくさと栞ちゃんの部屋を出て行こうとする。
 私には、一体彼が何かを見つけたのか、何を考えているのかは何も分からなかった。見ているだけで観察はしていないということだろうか。その点、彼は本を 《観賞》するという行為で、私よりも観察眼が冴えているのかもしれない。彼の《本の観賞》は、上の埃を吹き飛ばしたり、順番を入れ替え入れ替え、見映えを 良くしようと努力する作業も含まれている。私は彼がそんな事を行っている様子を何度が目にしたことがあった。
 彼が、少なくともただ本を見ているだけではないということは確かだろう。
 しかし、彼が本を観賞するというのはまだしも、私が澄沢君を観賞すると言うのはおかしな話だ。彼の心を読むことが出来なくても、別にガッカリすることは無い。
 私は一人そんなことを考え、自分を励ましていた。


     

 居間にて。
「森崎さん」
「あら、もう終わったんですか?」
「いえ、まだです。しかし興味深い発見がありました」
「はぁ……でも、報告は後で纏めてではありませんでしたっけ」
「はい、そうなんですが、ちょっと協力していただかないと先に進めなくなりましたので」
「はぁそうですか。それで、何を協力すれば良いんでしょう?」
「簡単なことです。パソコンはお持ちですか?」
「え、ああ、はい。叔父に無理を言って貰った、古いノート型パソコンですけど。もっともノート型と言っても古いですから、ノート・パソコンの内では大きいほうでしょうけどね」
「そうですか。それは都合が良い。では早速そのパソコンを使わせてもらってもよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ。壊さないのならご自由に。あれです」
 笑顔を浮かべながらそう言うと、恭子さんは部屋の奥の方を指差す。そこには背の低い木製の机があり、その上に澄沢君お目当てのノート・パソコンがあった。一体何故、彼は急にパソコンを調べる気になったのだろう?
 本からパソコンへ。アナログから急にデジタルへとの変貌。田舎の実家へ暫く帰らないでいるうち、田舎だった町が東京のように都会化していたのを見たらこんな気分だろうか。しかし今回のこの変貌はいささか急すぎる。その度合いもまた、小さなものではあるが。
「では、お借りします」
 澄沢君はそう言って、居間の奥、ノート・パソコンの置いてある机へと向かった。私も慌ててそれに続く。恭子さんはどうするのだろうと思って見ると、彼女 は編み物をしているようだった。赤い、マフラーだろうか。私が見ていることに気付くと、彼女は編み棒を置きニッコリと微笑んで、
「マフラーを作っているんです。もうすぐ冬ですからね。秋の、まだそんなに寒くないうちに作っておかないとね。こうやって節約しないと大変なんですよ」
 なるほどそういうことか。水商売をしてもまだ稼ぎ足りないとは大変だ。もしかすると借金でもあるのだろうか。
「大変ですね」
 私はそれだけ言うと、澄沢君の所へ向かおうとした。
「あ」
 私の体が殆ど恭子さんに対し背中を向けた状態になった時、何か惜しいものを手放す時のような声を、恭子さんは出した。私は何事かと思い、振り向き、訊いた。
「どうかしましたか?」
「え……ええ、いえね。あなたを事務所でお目にかけた時から、気になっていたんだけど……あなた、お名前は?」
「あ、桜優美です」
「桜、優美さん……そう、いい名前ね」
 恭子さんは澄沢君にノート・パソコンの場所を教えた時とはうって変わって、しみじみとした口調で話す。
「あなた、どことなく栞に似ている気がするの」
「え?」
「ふふ、驚くわよね。でもハッキリとどこがどう似ているっていうのは分からないの。ただ、本当にどことなく、雰囲気というか……似ている気がしてならないわ」
「はぁ……」
「ああ、ごめんなさいね、急に変なこと言って」
「いえ」
 彼女が私の事をジロジロ見てきたのはそういう理由だったのか、と私は心の中で納得していた。
 それで恭子さんの話は終わりらしかったので、私は今度こそ澄沢君のもとへと向かった。彼は机の前に正座し、パソコンのOSが完全にたちあがるのを待っているところだった。これで私は、少なくとも彼を見ることは出来る。
 私が隣に来て座ったことに気付くと、彼は顔を少し横に向けて私を視界範囲内に収めたが、すぐまた視線をディスプレイの方へ戻した。私が彼を見ても、彼は私を見てくれない。
 いつものことだが、彼は何故か、私の事を正面から直視するということをあまりしてくれない。仕事の依頼人に対してはそんなことはないのだが。理由が分からない。
 それでも、彼は私のことを見てはいなくても観察はしているようで、私の事をよく理解してくれている。それが不思議でならない。彼には、ものを見ずしても のを観察する力でもあるのだろうか。いやそれとも、彼は全然私の顔を見ず、どんな顔か知らないというほど見ていないわけではないので、少し見ただけでもう 充分ということなのだろうか。彼は処理速度の速い、高性能なパソコン。それ以外の一般人達は、処理速度の遅い低性能なパソコン。彼はほんの少し見る――時 間をかける――だけで観察――ダウンロード――を終了するが、私を含む一般人達は、何度も見る――時間をかける――ことによって漸く観察――ダウンロード ――を終了することが出来る。そういった比喩が出来そうな気がする。
 突然、何か電子音が鳴った。OSが立ち上がるときの音だろう。古いからか聞き慣れない音ではある。澄沢君はそれにビックリして微かに体を震わせた。彼は こういうのに弱かったりする。それで私は、先ほど考えた比喩は間違いかなという気がしてきた。と同時に笑いが込み上げてきて、ふふっ、と声に出して笑って しまった。すると彼は笑われた理由に気付いたのか、何も言わず、ただバツが悪そうに少し顔を顰めた。
 ディスプレイを見ると、デスクトップ画面が表れてはいたが、本体の方がガーガー鳴っているので今は弄れない。今何かをクリックしたところで処理に時間がかかるから、本体の音が鳴り終わってからやったほうがスムーズに行く。澄沢君もそれを待っているようだ。
 本体の音が鳴り終わるまでには三分ほどかかっただろうか、その間、居間にいる三人は誰一人口を利かなかった。恭子さんは編み物をしているし、澄沢君はパ ソコンが完全にたちあがるのを待っている。私も澄沢君の隣でそれを待っていることに変わりはないのだが、パソコンを操作するのは澄沢君の仕事になるだろう から、なんだか私ただ一人が手持ち無沙汰な状態だった。
 澄沢君は本体の音が鳴り止むと、マウスを握った。何を操作するのかと思ってディスプレイを見ると、驚いたことに既にもう何かが開かれていた。いつの間に? 彼の顔を見ると、何故か微笑していた。
「何をするの?」
 私は彼の顔を覗き込みながら、囁くように訊いた。それまでの沈黙が影響してだろう、声のトーンは無意識的に下げられていた。
「ん、ああ、ちょっと確認作業をね……」
 彼は微笑を湛えたままチラッと私の顔を見ると、すぐに視線を下に落とした。そして膝の上に置いてあった例の文庫本を取り上げ、栞を挟んでおいたページを開く。そして開いたページの何かを見ると、また栞を挟みこみ、膝の上に戻した。
 パソコンのディスプレイには何か文章が大量に表示された窓が最大化されて表示されている。どうやらWordらしい。書かれているのは小説か何かだろう か。よく見るとページの右端――文章は縦書きで書かれている――にボールドで強調されたタイトルらしきものがあった。英語だ。
 澄沢君はマウスを操り、スクロールバーを下げていく。このマウスは旧式なためホイールが無く、スクロールバーをドラッグしなければ下のページを見ること が出来ない。しかし澄沢君はホイール慣れしていたため、最初、何も無い溝の部分を人差し指でなぞったりしていた。それがまたおかしくて吹き出しそうになっ たが、今度はなんとかこらえた。
 彼は少しマウスを下へ移動すると、机が足りなくなるので浮かせて置き直しまた下へ移動させる、という動作を二、三度繰り返していた。目的のページは下の 方にあるらしい。その途中、多くの小説らしきものが私の目に映ったが、タイトルらしき大見出しは、全てが右端から始まっているわけではなく、真中あたりか ら始まっているものもあるようだった。
 そしてどうやら目的のページが近づいてきたらしく、澄沢君のドラッグの速度が急にゆっくりとしたものに変わった。そして止まる。
 どうやら文章を読んでいるらしい。澄沢君の目玉が上へ下へと動いているのが見て取れる。それで私も読んでみることにした。

Absolute Day


 私は彼が好きだ。彼はサッカー部のキャプテンをやっているスポーツマンで、勉強も出来る。スポーツ万能成績優秀で、更に顔も文句無しに格好良い。女子の間で大人気なのは言うまでも無い。
 そんな彼と私とは、ただの幼馴染というに過ぎない。彼の方が一月早い九月生まれで、私はその二ヵ月後に生まれた。二ヶ月の差を置いてではあったが、私達の間柄は、それほど広くは無かった……と私は思う。そしてこれから、更にもっとその距離を縮めるのだ!

 彼の教室、彼の友達に訊いた。
「彼はもう帰ったよ」
 私はそれを聞くと急いで昇降口へと駆け出した。駆けて駆けて、凹凸など無いはずの廊下で何度も転びそうになった。だけどこんな所で七転び八起きしている暇は無い。私は転ばないように、急いだ。
(まだ渡してないのに!)
 気持ちも体も焦っていた。私はついに転んだ。しかも運が悪いことに、転んだのは自分の持っていた大事な物によるもので、しかも転んだ頭の先には冷たくて硬いコンクリートの地面があった。せっかく下駄箱まで辿り着いたのに……
 ゴツン、と鈍い音を響かせて、私は頭から下駄箱の前の床、コンクリートの床に突っ込み、そのまま気を失ってしまった。

(……眩しい……何の光かしら?)
 気付くと、私は頭上の蛍光灯の光に目を細めていた。ここはどこだろうと思ってぐるりを見ようと頭を動かそうとする。
「いっつ〜!」
 突然猛烈な頭痛に襲われた。頭からコンクリートの床に突っ込んだ事を思い出す。これならまだ七転び八起きの方がいくらかマシというものだ。
「大丈夫?」
 これもまた突然、横から声をかけられた。聞きなれない大人の女性の声。
「昇降口で頭打って倒れてたのよ。まぁ、ちょっとしたたんこぶが出来てる程度だから、今日のところはもうそのまま帰っても大丈夫よ」
「は、はぁ……」
 訳も分からず返事をしてしまった。とにかく、私は誰かに発見されてこの保健室へ……あ!?
「あ!?」
「どうしたの? 急に大きな声出して」
「ここ、保健室ですよね?」
「あたりまえじゃない。あなたここ来た事無いの?」
「いえ、ありますけど……って、そんなことじゃなくって……ああ、あの!」
「何?」
「私、倒れてたんですよね?」
「ええ、そうよ。誰だか知らないけど、男の子が担いで来てくれたのよ。……ああ、そのことを気にしてるの?」
「あ、はい。……どんな人だったか分かりませんか?」
「え、う〜んそうねぇ……黒髪の、肩辺りまである、男の子にしては長い髪してたわねぇ……」
「ほ、他には!?」
「う、う〜ん、バッジの色、確かあなたと同じ黄色だったと思うから、多分二年生じゃないかしら。それと、話し振りがあなたのこと知ってるみたいだったわよ」
 彼だ!
「あ、ありがとうございました〜!」
 私はそれだけ言ってベッドから飛び降り、保健室を飛び出した。今度こそは転ばないよう、細心の注意を払いながら。
 それにしても、私を助けてくれたのが彼だったなんて……ということは、私は昇降口のところで彼に追い付いていたんだ。それなのに、たった一度転んだだけ で……運ばれた時、触れるほど、いや実際触れただろう、それほど距離が狭まったというのに気を失っていたとは、なんてドジなんだろう! 私は今ほど自分の ドジを呪ったことは無い。

 私は正門を出ると、自分の家とは逆の、彼の家のある方向へとなんの躊躇も無く足を向けた。そしてまた駆け出す。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
 白い息を吐きながら、私は走りに走った。そして、遂に見つけた!
 彼は箒を履いていた。彼はここ、白神神社の神主見習いとしてお爺さんに特訓を受けている。彼は私がいることに気付くと、振り向き、微笑み、手を振ってきた。
 私も手を振り返す。私は彼に、背中に隠した赤い包装紙で巻かれたものを、そのまま背中に隠しながら彼に近づいた。
「はい、これ」
 今日は彼の誕生日。こんな大事な日を忘れるわけにはいかない。絶対的な日。
「す、好きです!」
 私はついに気持ちを告白して、彼の気持ちを聞くことに成功した。



「ふぅむ……」
 鼻の下に手を当てた澄沢君の唸りが聞こえてきた。私とほぼ同時に読み終わったらしい。
 印刷紙二枚分に亘る、ちょっとした恋愛小説だった。感想としては、最後の結末が語られていない所が上手く出来ていると思う。ただそれだけカタルシスは得られないが。
「ふぅむ……」
 また澄沢君が言っている。何かそんなに考え込むような、おかしな部分があっただろうか。それとも、最後の締め方が気に食わないだけなのかもしれない。どうしたのか訊いてみようとしたのだが、
「どうかしましたか?」
 恭子さんに先を越されてしまった。
「はい? ああ、栞ちゃんは小説をお書きになったのですか?」
「ああ、はい。恋愛小説とか、ファンタジーとか、色々なものを書いていたみたいです」
 微笑みながらそう説明する恭子さん。
「みたい、とはどういうことですか?」
 細かい所を聞き咎めるのだなと思ったが、訊いて損でも無いかと思い直し、私は何も言わずに会話を傍聴させてもらうことにした。
「ああいえ、そのパソコン、元は栞の部屋にあったんですよ。私はパソコンなんて殆ど使いませんでしたから、栞が殆ど使ってました。それで栞が小説を書いているってことには気付いていたんですが、それがどんなものなのかは恥ずかしがって見せてくれなかったんです」
「ああ、そういうことですか。というと、このパソコンは栞ちゃんのために?」
「え、ええ。物で釣るみたいで嫌だとは思いましたけど、それ以外に出来そうな事が思いつかなかったものですから……」
「そうですか、わかりました。それだけですので」
「はぁ……」
 恭子さんはちょっと不思議そうな顔をしたが、またすぐに止めていた編み物を始める。するとすぐに、
「あ、そうだ」
 と言って澄沢君が立ち上がった。と思ったらまた座る。
「この小説に出ていたので思いついたのですが、栞ちゃんのご冥福を祈るため、神社にでも行きたいところですね」
 澄沢君はパソコンの電源を落としながら、恭子さんに背を向けたまま言う。
「は、神社ですか?」
「はい、そうです。この近くにありませんか?」
「はぁ……あるにはありますが……今から行くんですか?」
「はい。不都合ですか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「では行きましょうか」
 パソコンの電源が完全に落ちたのを確認すると、澄沢君は立ち上がり私にも立つように目で合図してくる。
 何故急に神社になど行く気になったのか。ただ単に小説中に神社が出てきたからなのだろうか。私は疑問に思いつつも口には出さず、黙って付いていくことにした。
 しかし、こんなことで栞ちゃんの遺書が見つかるのだろうか?


     

 銀杏の木の、落ち葉が散り敷く広い歩道。赤い煉瓦で出来たこの歩道は、今は銀杏の木の葉が所々を覗かせながら覆っている。木の根元辺りは特に木の葉が濃 く、全く赤が見えずに黄色一色になっている部分も少なくない。歩道と車道の境目の段差を降りた部分には下水に繋がる鉄格子があるが、そこもまた銀杏の木の 葉で埋められている。今雨が降ったら車道に水が溜まってしまうのではないかと変な心配をしてしまう。しかし今は雲ひとつ無い快晴。雨が降る心配は全く無さ そうだ。それにしても空の青さはそれほど濃くない。これでは青というより水色だ。しかし、絵の具の空色とはそんな色だったようなことを思い出すと、納得す るような納得したくないような妙な気分にとらわれた。
 澄沢君も恭子さんも、誰も一言も喋らずに、ただ目的の神社を目指して歩いているので、私は一人風景について想像を巡らしながら歩いていなければならなかった。澄沢君は何か考え込んでいるような様子で顔を顰めっぱなしで歩いているし、恭子さんには話しかけづらかった。

 暫くすると景色が変わってきた。左手の車道だったところは空き地とビルや民家がまばらに建つようになり、右手は閑静な住宅地といった趣を呈してきた。
 更に進むと、左手には建設中の民家が、右手には石段が見えてきた。あの石段が目的の神社への入り口だろうか。ここまでで大体五分くらいは歩いた。
「ほう……」
 澄沢君が声と顔を上げる。
「あの石段を登ったところがそうです」
 恭子さんが言う。やはりそうだったらしい。
 私達は無言のままに石段の前まで進んだ。澄沢君が鳥居に下げられた板に書かれている文字、即ちこの神社の名前を読む。
「白神神社、ですか。どこにでもありそうな名前ですね」
「え、そうですか?」
 恭子さんが驚いた風に言う。これには私も少なからず、澄沢君の言は信じにくい思いだった。そんなに同じ名前の神社があったら御参りに困るのではないか。
「北海道と広島にも、同名の神社があるのを知ってますよ。ただもっと田舎な所にありましたけど」
「はぁ、そうなんですか」
 それは意外だった。しかし、それぞれ神社が出来る時代は、名前が被っているかどうかなどを確認するのに手間が掛かったのかも知れない。少し考えれば納得のいくことではあった。
 しかし、それは良いとして、澄沢君が北海道や広島に行ったことがあって、更にそこの白神神社とやらを見てきたらしいことの方が私には大きな驚きだった。
 石段はそれほど長くは無かった。両サイドにはちょっとした林が出来ていたが、葉の間から、すぐ向こう側に住宅が見える程度だ。
 昇りきると、ある程度予想はしていたのだが、人がいない。今昇ってきた私達三人以外誰の姿も見えないのだ。と思ったら本殿の後ろから神主らしき男性の老人が現れた。イメージ通りというか、やはり、神主さんは竹箒を持っていた。裏で落ち葉集めでもしていたのだろうか。
 澄沢君は黙々と進む。賽銭箱に小銭を放り込もうとするのではなく、神主さんの方へと向かって。遅れじと私と恭子さんも続く。
「すみません」
 澄沢君が神主さんに声をかける。私は必要な時が来ない限り傍観を決め込むことにした。一体澄沢君が何をしたいのか解らない以上、下手に行動して邪魔してしまっては悪い。しかしそんな気遣いも、澄沢君に何か考えがなければ意味が無いのだが。
「あ、なにかな?」
「つかぬ事を御伺いしますが、この神社の向かいに木が一本、立っていませんでしたか?」
「は、木ですか?」
「はい、木です」
「…………」
 と、神主のお爺さんは狛犬のように固まってしまい、唸り声一つ立てなくなってしまった。心配になった澄沢君が声をかけると、緊張が解かれたのか肩の力を抜いた様子で快活に応えた。
「ああ! あったあった。ああ、でも今は家の娘が家ぇ建てる言うて、植わっとった木は全部引っこ抜いてしまいましたわ。はっはっは」
 質問の意図は理解出来ていないのだろう。それでも快活に笑う愛想の良さには安心する。ここで何故そんなことを訊くのか、などと根掘り葉掘り訊き返される のは、仕事上やりづらいし、人間的に好きになれない。この神主のお爺さんのような人は、年を取っても周りに友人が豊富だろうことが察せられる。
「あったんですね。それはどこです?」
「どこってあんた。自分で神社の向かいって言っとっただろう?」
「ああ、そうですね。失礼しました。ということは、あの石段を降りてすぐ目の前の、あの建築中の家のことですよね?」
「ああ、そうそう。それがうちの娘の家になる予定でな……」
「どうもありがとうございました。それだけですので、では」
 神主さんはまだ色々と話したそうな様子だったが、澄沢君は早々に切り上げてまた石段から降りていこうとした。
 機会到来。
「あの」
 まただ。また恭子さんに先を越された。
「はい?」
 澄沢君が呆けた顔で振り返る。恭子さんは、呼び止めたは良いものの、何と言ったらいいのか分からないといった感じでぐずっていたので、今度こそ私が言ってやった。
「御参りはしていかないの? 栞ちゃんの御冥福を祈るって」
「ああ! そうだった、すっかり……」
 さすがに、忘れていた、とまでは言えないのだろう。当初の目的は忘れても、そういう気遣いは忘れていないようだ。
 私達は、それぞれ自分の財布から小銭を取り出し、御賽銭箱に投げ入れた。ここでは三人ともが栞ちゃんの御冥福を祈っているはずなのだが。
 澄沢君は一体何を祈っているのか、私と恭子さんはもう合掌を解いて顔を上げているというのに彼はまだ手を合わせて目を閉じていた。
「澄沢君?」
 私が声をかけると漸く顔を上げて、自分が最後だったことに驚いた様子を見せた。その様子は、恥ずかしがっているようでもあった。


     

 御賽銭箱で三人揃って祈願をした後は、石段を降りたところで恭子さんとは別れた。恭子さんはそのまま家へ帰ると言い、歩き去った。私達はとりあえず自分 達の事務所まで行こうということになった。私の住むマンションは、そこから歩いていける距離だからそこでそれからの行動を考えればよい。
 結局のところ、一体澄沢君は神社に何をしにいったのか、よく解らないままに帰ることになってしまった。忘れてはならないが、私達は今、遺書探しという仕事を請け負っているのだ。

「ふぅ〜」
 澄沢君のいつもの癖だ。暫く外出して、事務所の玄関をくぐって中に入ったらまずこの大きな溜息が出る。それを聞くと私も、ああ帰ってきたぁ、という感慨 に包み込まれる。この溜息について、今はそうでもないらしいが、彼の学生時代、体力があまり無かった頃の癖の名残だと釈明していた。
 彼は靴を脱ぐとまずキッチンへ向かう。そこで手洗いとうがいを済ませると、応接室にあるお気に入りの安楽椅子にどっかと腰を下ろす。するとポケットから眼鏡ケースを取り出し、その中の眼鏡拭きで汚れが着いていなくてもレンズを拭く。
 私はこのように、彼の生活の行動についてはあるていどの知識を有するほどの間柄である。そういった知識は私が通いでこの事務所へ勤めていることと、澄沢 君が自ら話してくれることによって得られた知識なのだが、彼の私に対する知識というものは私の彼に対するものほど多くは無いだろう。彼は私の部屋に通って いないから。
 それでも、彼は私のことをよく理解してくれていて、そこがなんとも不思議なのだ。彼の生活を目の当たりにしている私よりも、彼のほうが私のことを解っているような気がすることさえある。やはり彼には、人間観察の才能があるのかもしれない。

 澄沢君は眼鏡を拭き終わると事務室へと入って行った。扉を閉める前に、まだ玄関付近で手持ち無沙汰にしていた私を見咎めて、
「どうしたの桜さん。まぁ、上がってよ。扉のプレートは《営業時間外です》になってるから、ゆっくり出来ると思うよ」
 彼の言う《営業時間外です》というのは、玄関の扉の表側に下がっている両面に文字の入ったプレートのことだ。《営業時間中です》と《営業時間外です》を ひっくり返して使えるプレートで、外出中や深夜には後者を外に向けて使っている。そして今も、今日の昼頃恭子さんの家へ向かう時に後者にしたままである。
「あれ、そういえば……」
 私は事務室の方へ向かいながら独りごちる。
「ん、どうしたの?」
「私達って、お昼から何も食べてないんじゃない?」
「あ、そういえば……」
 すっかり忘れていたがそうだった。ホームズではないが食事の事を忘れて完全に仕事に熱中していたように思う。いや、私の場合は必ずしもそうとは言い切れないところもあるが。
 とにかく今の今まで食べるという事を忘れていたのだった。今というのは、窓の外が橙に染まりだす夕暮れ時。時刻は午後五時を回ったところだ。しかし、不思議なことにお腹は減っていない。
「もう五時かぁ。早いものだね」
 事務室の窓辺に立って澄沢君が言う。彼もお腹がすいているといった様子は無い。
「そうね」
 私も窓の方へ寄っていく。
 こういう時、よくある刑事ドラマの捜査一課での一場面を思い起こす。ブラインドを押さえて窓の外を覗くシーンだ。
 しかしこの窓にはブラインドは付いておらず、代わりに真っ黒無地のカーテンが付いている。今は全開で、端で纏められているが。
 それで何故私がドラマのワンシーンを連想したのかというと、「窓に近づく刑事」という連想の種があったからだ。
 そう、澄沢清人は元刑事である。訳あって早々に退職し、私立探偵をやっているわけだが、これには深い事情がある。
「外食にでも行く?」
「え?」
 物思いの主人公に声を掛けられ、少々ビクリとしたが、どうやらボケッとしていたことには気づかれていないようだ。そのことには安堵したが、何と言ってきたのか聞き取れなかったため上手く返答できない。
 私が返答に窮していると、私が迷っていると解釈したらしく遠慮がちに澄沢君が言葉を継いだ。
「いい洋食店を見つけたんだけど……すぐ近くに」
「ああ……でも、ちょっと早くない?」
「いや、大丈夫。その店の営業時間はちょうど五時からもやってるから」
「ううん、そうじゃなくって……」
 秋ともなるとこんな時間に日が落ちるのか。これを見ると私の懸念もいらぬ心配というものにも思えてくるのだが。
「夕飯って、こんな時間に? 早くないかしら」
「ああ、そっちの心配か。でもこれぐらいなんじゃないかな、外食って。それに遅いと人混んでぐるだろうし」
「う〜ん、三重県に住んでた頃はそれで普通だったけど、こっちでもそうなのかしら?」
「ああ、そういう心配? 田舎と都会とでは食事の時間まで違うと思ってるわけだね。でもそれは個人の問題というものだし、心配する必要はないと思うよ。そういえば桜さん、東京来てから外食したことないの?」
「え、あるわよ」
「夕食は?」
「夕食は……無い」
「じゃあ行こうよ。それで自分の目で確かめてみれば良いじゃない」
「ああ、そうね……じゃあ、行きましょっか」
 澄沢君に食事を誘われたのはこれが初めてだった。なのでとても驚いたのだが、誰かに食事に誘われることは初めてだったし、なんだか嬉しくもあった。そしてまた、何故か緊張感までもが私の心の内に生まれていたのだった。

 黒塗りの階段を下り、車庫の前で澄沢君を待つ。すると、後から降りてきた澄沢君はスタスタと歩道を歩いていこうとする。
「え、澄沢君!」
「ん、どうしたの?」
 澄沢君は神社でのお祈りを忘れていた時のように振り替える。
「車じゃないの?」
「ああ、すぐ近くだから歩いていけるんだよ。ここと桜さんのマンションのちょうど間ぐらいの所なんだけど」
「ふぅん。私見たことあるかな?」
 澄沢君と並んで歩き出しながら言った。
「う〜ん、どうだろう。ちょっと曲がって奥まった所に行かなきゃならないから、見たことないかもね」
「そっか。楽しみ」
 そう言って私は笑った。

 それから五分ほど歩いただろうか。それまで真っ直ぐ歩道を歩き続けていたのだが、突然澄沢君が左へ道を折れた。私は道順を知らなかったから突然だと思ったわけだが、またすぐに左へ折れたから驚いた。殆どUターンするようにして少し進んでいくと澄沢君が、
「ここだよ」
 と言って片手を挙げて何かを示した。
《クックルドゥ》
 それが澄沢君の指す看板に書かれている洋食店の名前だった。つまりもう目的の洋食店に着いたのだ。私はまだ見たことの無い店だった。
 いかにも鶏料理が得意であることを匂わすネーミング。しかもどうやら、ただ鶏料理が得意だからという理由でこういう名前がつけられているのではなく、"料理"を意味する英語、"クック(cook)"とかけた駄洒落でもあるらしい。
「鶏料理専門店?」
 私は試しに聞いてみた。まさか本当にそうだとは思っていない。
「はは、いやいやそうじゃないよ。色々な洋食を食べさせてくれる、ちゃんとした洋食店だよ。でも鶏料理が得意なことは得意らしいけどね」
 ドアをくぐると、濃い赤と濃い緑のチェック柄の服の上に、可愛らしいフリル付きのエプロンという制服を着たウェイトレスが出迎えてくれた。私と同じぐら いの年齢に見える、黒髪の女性だ。今時こんな制服も珍しい気がするのだが。もしかして澄沢君がここを気に入っている理由はこのウェイトレスの制服……。
 怪訝な思いに駆られながらも、私達はウェイトレスの女の子に案内されて割と奥の方の二人用のテーブルまで案内されていった。
 店内の装飾は木の柔らかな色で、実際木が使われている。床も壁も、木目が浮かんでいる。澄沢君は木製の物、というかクラシックな物が好きだから、こういう装飾も気に入ったのだろう。テーブルも勿論木製だ。
 壁を見ると印象派のものらしい、小さな額縁に収められた画が何点か壁に掛けられている。
「あのパズル良いよねぇ」
 お絞りで手を拭いていた澄沢君が言う。一体何がパズルなのか。私の視線を追っているようだが私はパズルを見た覚えは無い。
「パズルって?」
 私は率直に訊く。
「え、ほらあの絵だよ。あれジグソーパズルなんだよ」
「ああ、あれパズルなの?」
「そう」
「ふぅん。……ところで澄沢君」
「ん、何?」
「この洋食店のどこが気に入ったの?」
「ああ、まずは音楽だね。クラシック音楽が良い。次に木だね。濃い茶色の木であるところが良いね。これが薄い黄色っぽい木だと明るくなりすぎていけない。 壁とか床とか、テーブルも木製なのが良い。クラシック音楽とも合っていると思うし。それと、お客さんも五月蝿い人は全然いない。他は……いや、まぁそんな ところかな」
「ウェイトレスは?」
 私は呟くような小声で、聞こえなくても別にいいかという投げやりな気持ちで言ってみた。しかし、それはどうやら彼の耳に届いていたらしい。
「ウェイトレス?」
「あの典型的なメイド服に近い制服のウェイトレス。ああいうの好きなんじゃないの?」
「はは、メイド服ねぇ。別に好きってわけじゃないよ。まぁ、嫌いというわけでもないけど。あれはまぁ、この店の雰囲気を崩すほどではないと思うし、悪くは無いんじゃないかな」
「ふぅん」
 曖昧な答えだ。まぁ良い。そんなことを訊いたってしようが無い。
 メニューを開いて、何を注文するか考える。
 チキンソテー・デミグラスソース風味、チキンセットA・B・C、ハンバーグセット、オムライス……
「じゃあ僕はチキンソテー・デミグラスソース風味にするよ。桜さんは決まった?」
「私も同じ物で良いわ」
 メニューを決めると、あまり待たずに例のウェイトレスが注文を取りにやってきた。
「桜さん、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」
 とウェイトレスが去った後すぐに、さっきまでの陽気な様子は消え失せ、悩ましげな顔をした澄沢君が私に向かって言う。珍しく私の目を見ている。
 私は少し驚いて、ちょっとばかり取り乱してしまった。
「な、何?」
「今回の依頼の事なんだけど……」
「ああ、そのこと」
 私は妙にほっとした。
「ちょっと気になることがあってね……あのブックカバーの着いていた本。あれについて何か変に思わなかった?」
「変って?」
「う〜ん、まぁ気付かなかったのならいいよ。じゃあ、あのアブソリュート・デイについては?」
「アブソリュート……ああ、栞ちゃんの書いた小説のこと? う〜ん、そうね……最後の締め方で好き嫌いが別れそうね。私は好きでも嫌いでもないわね。小説だって解ってるから。でも現実であんな終わり方は嫌よ、絶対」
「う〜ん、そうか。因みに僕は、ああいう締め方は好きじゃないな。いや、本音を言ってしまえば嫌いだな。まぁ、それは別に良いんだけどね……でも、最後のあたり、なんだか文章がおかしくなっていたような気がするんだよ。思わなかった?」
「え、特に思わなかったけど。それがどうかしたの?」
「それが重要なんだよ」
 言って澄沢君は深く考え込むように鼻の下に握り拳を当てる。左手の甲は右肘を支えていて、見るからに真面目な学者が考え込んでいます、といった感じだ。
「作為だ」
 と、突然澄沢君が喋りだした。
「あれは作為だよ。最後の部分、あれは栞ちゃんが書いたものではない」
「え、それ、どういうこと?」
「全部が全部、栞ちゃんが書いていないというわけじゃない。でも、最後の数行。あれは誰か別の人物によって書き換えられたんだ。それともあの作品は未完だったのか……いや、次のページにも小説はあったから、完成はしていたはずだ。すると消されたか。
 桜さん、小説の、アブソリュート・デイの内容、特に最後のほうだけど覚えてる?」
「うん、まぁ大体は」
「確か、女の子の思い人は神社の神主見習いで、箒を持って掃除をしていたんだよね。それで彼を見つけた女の子の主人公が、どういう過程を経てかは明らかに なっていないけど、とにかく告白をしに行く。そして彼の気持ちを聞く事に成功する。というような終わり方で良かったかな?」
「うん、大体それであってると思う」
「ふぅむ。彼女がその告白をした日だけど、彼の誕生日、と最後のほうでは書かれていたよね?」
「うん、そうだった」
「しかし……この小説の冒頭では、彼の誕生日は九月、と書かれているんだ。覚えてる?」
「ああ、そういえばそうだったわね。でもそれがどうしたの?」
「文章がおかしくなる少し前、女の子が走って男の子を追いかけている時の描写に、女の子は白い息を吐きながら、とかそういった描写があったと思う。おかしくないかい?」
「え、う〜ん……あ!」
「ね、おかしいだろう。彼の誕生日は九月、真夏と言っても良い季節だ。なのに何故息が白くなるのか。息が白くなって目に見えるようになるのは、冬だよ」
「そっかぁ。……でも、それってどういうことなのかしら」
「だから、作為なんだよあれは。何者かが弄って文章を書き換えたんだ」
「でも、誰が何のために?」
「それが問題なんだ」
 澄沢君はまた鼻の下に拳を当てて考え込んでしまったので、邪魔になるかもしれないとは思いつつも私は質問してみた。
「じゃあ、栞ちゃんは元々はどう書くつもりだったのかしら?」
「ん、ああ。それについても作為の跡、というかミスが見つかるね」
「え、まだ何かあるの?」
「ああ、作為者はうっかりものらしい。誕生日は九月。しかし作中の季節は、女の子の吐く息が白いことから言って冬だ。その事と題名とをあわせて考えれば、 作中の日が何月の何日なのかまでわかると思うよ。もっとも、最終的には二択になってそのどちらかまでは判別できないけれどね。まぁそれだけ解れば、栞ちゃ んが元々はどう書きたかったのか、少しは想像できないこともない」
「冬で、アブソリュート・デイ、アブソリュートってどういう意味だったかしら?」
「絶対的な」
「ああ、絶対的な日ってことね。あれ、そういえば作中でも書かれてたっけ。えっと、冬の絶対的な日、誕生日じゃなくって、絶対的な……大切な日ってことかしら……あ、もしかして……クリスマス?」
「うん、恐らくそのあたりだろうね。クリスマス・イヴなのかクリスマスなのか、そればっかりは判別のしようがないけれど。それで多分、女の子はマフラーをプレゼントするつもりだったんじゃないかな」
「マフラー? どうしてそんなことまで解るの?」
「ほら、女の子が教室から駆けている途中、廊下で転ぶ描写があったよね。あの時、転んだ理由が自分の持っていた荷物によるものだと書かれていた。何の凹凸 もない廊下で転ぶには、マフラーのような物がうってつけじゃないかな。大事な物とも書いてあったから、男の子へのプレゼントであることも察せられる」
「なるほどぉ。でも誰がそんなことしたのかしら?」
「う〜ん、誰が、か……それが可能なのは普通に考えて森崎さん――ああ、母親の方の森崎恭子さんのことだけど――ぐらいしかいないんだよね」
「恭子さんが? 何のためにそんなことしたのかしら?」
「さぁ……それはまだよく分からない。そこまで考えが及んでいないんだ。またじっくり考えてみようと思う」
「考えたらわかることなの?」
 私は何気なく訊いた。別に皮肉を言ったつもりは無かったのだ。
「はは、それは分からないなぁ。どうだろうね。まぁ、それで解ったら儲け物だろう。考えてみるにこしたことは無いと思うよ」
「ああ、そっかぁ。でも凄い、よくそんなに分かったわね」
「いやいや、この程度なら推理小説を読み慣れていれば大したことではないと思うよ」
「む、私も推理小説読んでるんですけど」
「はは、まぁそういう人もいるさ」
 笑って誤魔化すとはこのことか。
「でもそれだけ覚えているだけでも凄いわ」
「う〜ん、そうかなぁ」
 と、そこで澄沢君と私、二人分のチキンソテー・デミグラスソース風味が運ばれてきたので話は中断された。そしてウェイトレスが去った後、話の続きをするのかと思いきや、
「デミグラスソースっていったら普通ハンバーグにかけるよね。でもこれ、意外とチキンにもあうんだよねぇ」
 どうやらもうしないらしい。澄沢君から話さないのなら私から聞くつもりもなかったので、そのまま話題は雑談へと変わっていった。
 エドヴァルド・グリーグの『羊飼いの少年』の流れる店内では、私と澄沢君以外にもお客は数人来ていたが、彼が言ったように大声で騒いだりする迷惑なタイプのお客はいないようだった。洋食店というのだから当然だとも言えるが。
 澄沢君と話している時は、彼の声以外は全然気にはならず、快適な環境である。こういう雰囲気、私も気に入ってしまった。またいつか一人ででも食べに来ようと思う。
「そうだ、桜さん」
 食後の水を飲んだ後に、ふと思いついた、といった様子で澄沢君が言った。
「明日はゆっくり休んでいるといいよ。僕はちょっと出かけてくるから」
「え、私も一緒じゃ駄目なの?」
「う〜ん、行ってもあんまり意味無いと思うよ。それより、あんまり休みの取れない仕事だからこういう時に休んでおいた方がいいよ。いざという時に動いてもらえないと困るしね」
「じゃあお言葉に甘えて休ませてもらうけど、澄沢君こそ休まなくって良いの?」
「僕は用事があるから。それに桜さんと僕の二人じゃねぇ。休みようがないよ」
 そういう訳で、私だけは明日は休みということになった。澄沢君はどこかに出かけるらしいが行く先はあまり言いたそうではない様子だ。彼は言いたければ自 分から言う性格だから、ここは黙っていることにしよう。いつか話してくれるかもしれないし。話してくれないなら話してくれないで、私はそれでも構わない。
 二人ともが食べ終えると、お会計の事でちょっと口論になった。と言っても些細なものではあったが。澄沢君の体全体から、ここは男として払わないわけには いかない、という気≠ェ、禍々しい程に発せられていたので、私は割り勘でと言うのもやめておいてここは澄沢君にご馳走になることにしておいた。
 《クックルドゥ》を出ると、私達は私の部屋のあるマンションの方へと互いに示し合わせるでもなく、向かっていた。しかし、ほんの五分足らずの道程であるから、私は澄沢君に向かってわざわざ送ってもらわなくてもいいわよと言った。
「駄目だよ! もうこんなに暗いんだよ!」
 と、いきなり語気荒く彼は言う。時刻は午後五時四十分を少し過ぎたところ。それでも空は既に真っ暗になっていた。空は真っ暗だが、街道に立つ店店の発する灯りで暗さは殆ど感じられなかった。
「でもすぐそこよ」
 そんな私の暢気な言葉に、澄沢君はまだ語気強く言い返してくる。
「その短い距離の間で、誰かに襲われないとも限らない。夜の都会はこれだから気が休まらなくて好きじゃないんだ。なるべく夜は外出しないようにしているん だけどね。一人なら自分で気を張り詰めていれば済むことだけど、今回のような場合は送っていくよ。嫌だって言ったってストーキングしてでも……」
 そこまで聞いて私は思わず笑ってしまった。いくらなんでも心配のし過ぎだ。私はまた思った事を言った。
「笑い事じゃないよ! 田舎だって完全に安心というわけじゃない。学生時代、時折変質者の話とか聞かなかった? 田舎でもそういう人がいるんだから、都会ならもっと危険だよ。昼間ならまだしも、夜ともなるとね……」
「じゃあなんで、その危険な都会に住んでるの?」
「それは仕事の為だよ」
 彼は迷い無く即答する。
「田舎で探偵なんてやったって飢え死にするだけだよ」
 確かにそれは言えなくも無い、と思った。田舎の私立探偵、想像もつかないような仕事を依頼されていそうだ。いや、依頼があればそれだけでもマシと言えるような状態かもしれない。
 そんなことを話しているうちに、私のマンションに着いてしまった。澄沢君とはマンションの玄関で別れの言葉を交わす。しかし、彼は私がエレベーターに乗り込むまでじっと立って私を見ていた。
「ふふ、凄い心配性」
 私は一人、エレベーターの中で呟いていた。


     

 私は部屋に戻ると、一人感慨にふけっていた。考えてみれば、私は誰かに誘われて食事に行くのも、自宅まで送ってもらうのも、今回が初めてなのだった。
 私は初めてだが、澄沢君はどうなのだろう。そんなことを気にしながら、水で顔を洗い、うがいをする。化粧はしていないから落とす必要もない。そうしたらいきなりベッドに突っ伏して眠りこけたい衝動に駆られた。
 食事中、私は全然自覚が無かったのだけれど、かなり精神力を使っていたらしい。どっと疲れが私を襲った。部屋に帰りついた安堵感がそうするのか、私はい つもその時々には疲れというものを感じないのだが、部屋に戻ると疲れが現れる。そういうことが前から幾度かあった。特に澄沢君の探偵事務所で助手をやるよ うになってからはそれが顕著な気がする。明日は休んでおくといいという澄沢君の言葉に素直に従っておいて正解だったと、この時つくづく思った。私は着替え もせずに、スーツのままベッドに倒れこむと、どうやらそのまま眠りこけてしまったらしい。

 目が覚めると、私はベッドの中で、スーツを着たままではあったが掛け布団をちゃんと掛けて眠っていたことに気付いた。深夜にでも寝ぼけて掛けたのだろうか。
 時計を見ると、午前九時過ぎ。しまった寝過ごした、と一瞬思ったが、すぐに今日は休みを貰ったのだったということを思い出し胸をなでおろす。
 私はまず洗面台で顔を洗って、それから服を着替えた。
 昨日出かけた時に閉めたままだったカーテンを開ける。すると、眩しい陽光が私の網膜を刺激した。急激な光の照射に、私は目が痛くなって目を細めてそっぽを向いた。
 朝食を摂ろうと思った。簡単に、ベーコンエッグと食パンのトーストでも作ろう。
 牛乳をコップに注いでいると、食パンが一枚トースターから飛び出した。フライパンの上では、ベーコンと一緒に目玉焼きがジュウジュウ音を立てて焼かれて いる。私はフライパンを取りテーブルまで運ぶと、私はベーコンエッグを箸でそのまま、トーストでないもう一枚の食パンの上に運んだ。
 食パンのトーストが一枚、ベーコンエッグの乗った食パンが一枚。合計二つの食パン料理と牛乳で、今日の朝食の完成だ。
 私はパンを頬張りながらニュースを見ようと思い、テレビをつけて朝のニュース番組にチャンネルを合わせる。画面の左上に現在の時刻が表示されている。午前中だけ表示される時計、今は九時十六分。
 画面右下には議論中の題名らしきものが読みにくいぐにゃぐにゃのフォントで表示されている。
 『児童間のいじめによる自殺問題』
 いじめによる自殺……今、澄沢君と私が依頼されている仕事の背景に関係があるので、私は興味を持って見入った。
 そういえば、いつだったか澄沢君と、事務所の事務室で暇をもてあましている時に話したことがあった。この、今テレビで放送されているものとほぼ同じ題名を付けられるであろう話を。

 春も終わり頃。だんだんと寒くなってきた時期だった。私と澄沢君は、事務室で各々のデスクの前に座ってぼうっとしていた。ちょうど書類整理が終わって暇になっていたのだ。
「桜さん」
 と、澄沢君が声を掛けてきた。
「何?」
「さっきちょっと、少年犯罪についてネットで調べていたんだけれどね。いつの間にやら学生のいじめと自殺に関するホームページに入り込んだらしくって……今もやっぱりいじめというものは残っているらしいねぇ」
 彼は書物以外にも犯罪研究という趣味も持っている。犯罪学についての本も、彼の書架には多く並べられているのを私は見ていたし、そういう趣味については了解していたから、彼が突然こんなことを言っても私はそれほど驚く必要も無かった。
「そうね、いじめって中々無くならないみたいね」
「そして自殺もまた、中々無くならない……」
「自殺?」
「ああ、そう多くは無いけれど、いじめられて登校拒否になって、ついには自殺する人もまだいるみたいだよ」
 澄沢君の口調には、どこか苛立ちの感情が含まれているように感じた。
「自殺なんてしたら、後には悲しみしか残らないというのに……。
 桜さん、どうして人は誰かをいじめるんだろう?」
 澄沢君のその問いに、私は少し考えてから応えた。
「それは……昔の部落差別みたいなものなんじゃないかしら。誰かの上に立っていたいという、支配欲みたいな」
「支配欲か……馬鹿馬鹿しい事だね。誰かの上に立ち、支配する事がそんなに重要な事とは思えない。いじめなんてするだけ人に嫌われるんだ。いじめ仲間以外 だけどね。いじめ仲間……いじめる奴には仲間がいる。普通、一人ではいじめないよね。いや、一人ではいじめられないんだ。これは絶対と言っても過言じゃな いと思う。
 人の上に立ちたいと思いつつも、誰かと共にありたいとも思う。我儘なことだねぇ」
「そうね」
「ふぅむ。じゃあ、どうしていじめは見て見ぬ振りをされると思う?」
「え、どうしてかしら?」
「普通≠ェ酷いからだと思うね。普通≠フ状態が酷いから、誰かがいじめられていてもある程度までは見て見ぬ振りをする。まぁ、限度を超えることは中々 無いけれどね。だから見て見ぬ振りをする者達は、回数によって蓄積されたいじめられる側のダメージを知ることなく、いじめられる者の自殺が発生する事にな る」
「普通が酷いって?」
「う〜ん、例えば、友達同士でド突き合ったり、プロレスごっこや、肩パンとか言ったかな、互いに肩を思い切り殴りあうなんてものもあったなぁ。あれには驚 いたよ。まぁそういうことが日常茶飯事になっているから、いじめられているのを見ても、普段の行いからそれほどかけ離れた行いではないから、放っておいて も大丈夫かと思うようになり、見て見ぬ振りが可能になってくるんだと思う」
「ああ、なるほど」
「なぜ友達同士で暴力を振るうのか。僕にはまったく理解が出来ない。大切な友達を痛めつけて何が楽しいんだ? 罪悪を感じるのが普通だろう。まともな倫理観を持った人間が少ないね。まったく、この世には俗人が多過ぎる」
「そうよね。私もそれには同感」
「そしてこういういじめが普通≠ニなり、犯罪が猟奇的にもなってくるのではないかと思う」
「ああ、犯罪に繋がっていくのね」
「うん。まぁこれは一つの考えだけどね。全ては連鎖だ。どこかでスイッチが入ればどこかで何事かが起こる。それは時にボタンの凹凸の変化、色の変化というほんの些細なこともあれば、いずこかで核爆弾が爆発するという強烈な効果を及ぼす事もある。
 まぁ、スイッチにも系列があって、例えばいじめは《犯罪》の系列に含まれているスイッチだね。いじめが酷くなり、普通≠フ上限が上がれば、その上にある"猟奇事件"は押し上げられて猟奇さが増す。
 少年犯罪というのは、いじめという酷い普通≠ェ起こっている現場であるがゆえに、猟奇的な犯罪と隣り合わせで、そういう事件が発生しやすい地域になっ ていると思う。最近は少年犯罪が話題になっているけれど、なんでもかんでも最年少記録を出すと珍しがられるものらしいね。九十歳のお爺さんが人を殺したっ て、それほど話題にはならないだろうに」
 そう言った後、澄沢君はクスクスと笑った。この辺りから彼の口調から苛立ちが消えたように思う。
「学生というのは何かと受験受験で精神的にも不安定だからね。そういうのも重なって、犯罪に走りやすいんではないかと思うよ。でもね、所詮は子ども。怯えがあり、大胆さに欠ける点では犯罪者になりにくいとも言える。その点、大人になればある程度の大胆さも付いてくる。
 学生時代は環境的に犯罪に走りやすいが、精神的には実行しにくい。反して、大人になると環境的には犯罪をするには何の障害も無く、精神的には犯罪がしや すい。まぁ大人になってからのほうが罪を犯しやすいのは当然だね。そして実際、少年犯罪というのは大人の犯罪に比べれば少ない。しかし、学生ゆえに、先ほ ど言ったように猟奇的な事件を起こしやすい。それでテレビなんかでは少年犯罪の多発などと言われて取り沙汰されているんだと思うよ。大人になったら分別も ついて、猟奇的な事は考えなくなってくるからね」
 なんだか話が逸れている気がする。いつの間にやらちょっとした犯罪社会学の講義のような感じになってきた。
「う〜ん、それは解ったけど、元々の話はいじめと自殺についてじゃなかったかしら?」
「ああ! そうだった。そうそう、自殺だけどね。今まで言ってきた犯罪についてと少し似ていると思うんだ。違う所は、学生時代は環境的にも精神的にも自殺 をしやすいということだね。受験受験ってね。精神的負担がある。それにいじめが加われば、自殺もしたくなるのかもしれない。犯罪に走りたくなるのと同じよ うに、それはいじめという普通≠ェ原因なんだ。
 普通じゃない、というのは悪口で使われるが、僕が今まで言ってきたことをあわせて考えると、普通≠ニいうのは決して良いものとも限らない。まぁ、"普通"というのは時代に左右されるものだから、普通≠ェ良いものである場合もあるだろうがね」
「うん、それで?」
「それで、だね……いじめに受験、精神的負担は大きいだろう。しかしながら、そこで自殺したってなんの解決にもならない。それどころか、後に残るのはマイナス的なものばかりだ。
 家族が悲しむのは当然だろう。そして葬式代もかかる。時間もかかる。家族の中には、悲しみで何事にも手がつかなくなる人が現れることもある。
 自殺者は自己中心的な性格だと言える。しかし、そんなことを気遣っている余裕なんて無かったんだろうから仕方がない、と言う人もいるだろう。だが、その余裕をなくしてはいけないんだ。どうせなら、いじめによる暴行で死んで、賠償金をもぎ取ったほうがまだマシだね。
 ああ、ちょっと酷い事を言ったかな。しかし実際問題として、自殺とはそういったものと比較されるぐらい低レベルな行いというわけだよ。
 自殺は弱者のすることだ。どんなことがあっても自殺はしてはいけない。自殺するぐらいならひきこもったほうがまだマシというものだよ」
 澄沢君の口調に苛立ちが復活していた。

 私は朝食を食べ終わった後、ベッドの上に寝転がって澄沢君とした会話の内容を思い出していた。
 栞ちゃんは弱者だったのだろうか。いじめと受験。澄沢君が言っていたように、精神的負担が自殺を実行させるまでに蓄積されていたのだろうか。


     

 その後の私が何をしたのかなどはどうでも良いことだ。しかし、私が物思いに耽っている間、澄沢君が何をしていたのか、ということは重要であろう。私が次の日の朝目が覚めた時、私の心の中に真っ先に飛来したのはそのことだった。
 この日、澄沢清人のこれまでの行動と、森崎恭子に依頼された仕事の全容が明かされるということを前もって知っていたら、私の心に飛来したはずのものはそんな思いではなかっただろう。

 私がいつも通りの時間に出勤すると玄関扉に掛けられているプレートは《営業時間外です》のままで、どうやら澄沢君はまだ眠っているらしい事が察せられた。私はそっと扉を開け、中へと入っていった。
「澄沢君〜」
 小さな声で、まず呼びかける。だが返事はない。構わず私は靴を脱ぎ上がっていった。
 所長室の前で立ち止まる。ノックをしようか、それとも声を掛けようかと逡巡していると、中でモゾモゾと何かが蠢く気配がした。起きたのだろうか。
「澄沢君?」
 自然と声を掛けていた。すると中から、小さく唸り声のような音が聞こえてきた。寝惚けているのだろう。私は台所へ向かった。
 熱い珈琲を二杯淹れると、それを応接室の背の低いガラス製のテーブルに置く。このテーブルは、森崎恭子さんとの依頼の時にも使用したソファの間に置かれている。
 暫くすると、澄沢君が所長室の扉を開ける音が聞こえてきた。漸く服を着替えて起きて来たのか。彼は応接室ではなくキッチンの扉を開けた。すぐに蛇口から 水の流れ出す音が、続いてバシャバシャと顔を洗っている音が私の耳に届く。いつも通りの行動。私が、澄沢君が起きるよりも早く出勤してきた時は、いつもこ のパターンの繰り返しだから、彼の次の行動も予想がつく。彼は今私がいる応接室を素通りしてトイレに向かう。出るともう一度キッチンで手を洗う。そしてま た応接室を素通りして玄関扉を開け、プレートを《営業時間中です》にする。そうしてから漸く、私が待っている応接室にやって来て朝の挨拶を交わすのだ。恐 らく私が居なくてもいつもこのパターンなのだろう。ただ最後に、応接室に来るのではなく事務室へ向かうという違いがありそうだとは思うが。
 今日もいつも通り行動しているようだ。トイレから出て、今キッチンで手を洗っているところまできた。次はここを通り過ぎて……
 ガチャリ、と音をさせて開いたのは、玄関扉ではなく応接室の扉だった。
「おはよう、桜さん」
「お、おはよう」
 まだ少し眠気が抜けきらないといった表情の澄沢君と朝の挨拶を交わすと、彼はテーブル上の珈琲に気付き、
「あ、珈琲淹れてくれたのかい。これはどうもありがとう」
 嬉しそうな笑顔で私の向かいのソファに腰掛け、カップを持ち上げる。
「どうしたの、今日は。プレートひっくり返さないの?」
 彼は機械ではないし機械だって故障する時もあるが、予想外の行動をとられると驚くものだ。私は不思議でならなかったために、その事を訊かずには居れなかった。
「ん、ああ、すぐ出掛けるからね。それまでに誰かに来られたら困るでしょ」
「また出掛けるの?」
 私は小さく叫んでいた。彼の疲れている様子から、昨日の外出が結構ハードだったらしい事が察せられたからだ。彼はあまり体力がある方とは言えなかった。
「うん。森崎さんの所へね。午前中は暇だけど、お昼からはパートに出掛けるから無理だっていう話だから、早いうちに行かなければならないんだ」
「ふぅん。じゃあ、この珈琲飲んだらすぐ行くの?」
「ああ、そうだね。……九時か。まぁ、起きているだろうね、この時間なら」
 それから少しの間、私達は熱いブラックの珈琲を惜しむように飲み、それが終わると澄沢君は、いかにも面倒臭げな溜息を一つ吐いてから立ち上がった。この ところ悩みっぱなしの印象が強い彼だが、考えてみれば昨日の外出で体力も使ったようだから、今の彼は精神力も体力もボロボロなのではないかと急に心配に なってきた。
「大丈夫なの?」
 思わずついて出た言葉だったが、本当に心配になってきていたので、もし適当に流そうとされても問い詰めてやろうと心に決めた。
「ん、何が?」
「なんだか凄く疲れているみたい」
「ああ、そんなこと。平気だよ。まぁ確かに疲れていることは疲れているけれど、ぶっ倒れるほどではないよ」
 そう言って微笑してみせる澄沢君。それを見て完全に安心したというわけでもなかったが、どうやら思った程ではないらしいのでひとまず安心はした。
「じゃあ、今日は僕の車で行こうか」
 にんまり笑って彼が言う。


     

 銀色のランサーを駆る澄沢君は、心なしかぼうっとしているようだった。無表情で考え事をしている、そんな印象も受けた。
 二十分ほどの道程を私達は無言で過ごした。彼の無表情が私を気遣わせないための故意のもののような気がしたから、私からは話しかけづらかったのだ。彼は 自分が顰め面で考え事をしていたことに気付き、私がそれに気付いている事にも気付いた。だから考え事をする時に顰め面をしないようにしたのだろうと思う。 だが、あんな無表情でいられたら何か考え事をしているのがまる解りだ。
 だから私は、この行軍途中に彼がこれから何をしに行くのかということを聞き出せなかった。

 二度目のヴァージン・ハイツ。二〇三号室のドア横に設置されたインターフォンを、澄沢君が一度押す。少しすると、は〜い、という声が案外近くから聞こえ てきた。そしてそう思うや、ドアが開かれる。あらどうしたんですか、と言いながら笑顔になる恭子さんが現れた。澄沢君はそれには応えず、ちょっとお邪魔し てもよろしいですかと訊く。恭子さんが頷き、私達は中へと招じ入れられる。その時、カチリという微かな音が聞こえたような気がした。
 居間に通されると、恭子さんは座布団を部屋の隅から三つ取ってきて、床に並べた。この部屋にソファは無い。
 何故か澄沢君は座ろうとせず壁に凭れかかっているので、私だけ座るわけにはいかなかった。恭子さんも立っている。
「ソファをわざわざお捨てになるから、座布団を並べなきゃならなくなるんですよ」
 澄沢君の、意味不明の言葉。恭子さんは呆然としている。
「いくらそんな小細工をしたところで、住んでいる所がこれだけの作りなら、意味はありませんよ。出来る限り貧乏人ぶろうとしたのでしょうが、余分な部屋が 一つ付いているなんて豪勢じゃありませんか。まぁ、引越ししたくてもそういうわけにもいかなかったから仕様が無かったんでしょうがね」
「……な、何の事ですか?」
 恭子さんの質問。また先を越された、とは思わなかった。私もそう思ったのだが、澄沢君の言っている意味が解らないという気持ちのほうが強く、先を越された、という事には後で気がついた。
「単刀直入にお訊きしましょう。あなたが栞ちゃんを殺したのですね」
「…………」
 恭子さんは目を大きく見開き、澄沢君を凝視していた。
 私には一体何の事なのかさっぱり解らなかった。何故恭子さんが栞ちゃんを殺したなどという考えが出てきたのか。それにソファを捨てることがどう関係する のか。そもそもそういった情報はどこから手に入れてきたのか。私の頭の中は混乱しきっており、訳も解らず心臓が早鐘のように打ち鳴っていた。
「では、まずは私の調査で解った事をお話しましょうか」
 そう言って話し始めた澄沢君の調査報告は、驚くべき内容だった。助手の私でさえ、まさかこのような結末が待っていようとは思いもしなかったのだ。
「あなたが私達の事務所を訪れたのが一昨日のこと。その時あなたはタクシーに乗ってこられましたね。そして事務所を出て行くとき、あなたはそのことを私達 に仰った。私達はあなたに言われずともすぐに調査に行くと言ったので、それほど不自然にはなりませんでしたが、やはり不自然なことに変わりはありません。 探偵事務所で相談するのに、普通タクシーを待たせておくなどしませんよ。これはあなたの手落ちでしょうか? 恐らくそうでしょう。あなたは一刻も早く私達 に調査して欲しかった。そう願っていたからこその手落ちです。
 では、あなたは何故一刻も早く調査してもらいたかったのか? それは昨日の調査で解りました。あなたは少し、私を舐め過ぎたようだ。
 栞ちゃんには五百万円の死亡保険が掛けられていました。しかしあなたはそれをまだ受け取っていません。何故でしょうか。私は疑問に思い、それも調べてみ ました。随分と遠出をさせていただきましたよ。実家が青森だということが分かって、私はすぐにあなたの実家を伺いました。親類縁者をあたって調べるつもり でした。しかし青森だけで多くの方に会えたので手間が省けて少しは助かりましたかね。
 親類縁者の方々の殆どが、あなたが真っ当な人間だとは思っていないようですね。子どもの世話もちゃんと出来ていないだろうと皆さん言っておられました。 水商売なんかやって子どもが育てられるものか、とも。まぁ私はあなたの親戚の方の悪口を告げ口するのが目的ではありませんからこれで留めますが、相当な評 判でしたね。実のところ驚きました。少なくとも私達と話している時のあなたは気の良いおばさんといった感じしか受けませんでしたからね。おそらく桜さんも そう思っていたことでしょう。
 それで、あなたの親類の方――あなたのご両親も含めてですが、あなたが保険金目当てで栞ちゃんを殺したのではないかと疑って、保険会社に調査を依頼して いた。それであなたは保険金が中々受け取れずにいた。だがあなたは早く返さなければいけない借金があった。それも悪徳なものですね。それも調査させていた だきました。あなたが悪徳借金会社に借りていたのは二百万円。しかし法外な利子のせいで、再来月には五百五十万円近くになるようですね。だが今月中、遅く とも来月の頭にお金が入れば、利子は増えずに四百八十万円で返しきることが出来る。
 そしてあなたは考えた。どうすれば早く保険金が手に入るのか。それは保険会社の調査員を納得させれば良い。他殺ではなく自殺だと思わせればよいのです。 保険金というのは、自殺では受け取れなさそうですが、栞ちゃんが入れられていたのは一年経てば自殺でも保険金が下りるものでした。最近は自殺者が増えてき ているため、一年が二年や三年に増えてきていますが、まだ一年経てば下りるようになる保険が無いわけではありません。あなたはそれに栞ちゃんを入れたので す。そして今では、加入から既に一年と六ヶ月が経過している。自殺である事を証明できればあなたは五百万円を手に入れることが出来る状況にあったのです。
 次にあなたは、どうすれば自殺であることを証明できるかを考えた。そして工作をしたのです。そしてその工作を第三者に調査させ、その調査によって栞ちゃ んが自殺であるという事を証明させる――つまり遺書を発見させるのです。それも実に凝った劇的な方法で。そうすることにより遺書の価値を高めようとしたの でしょう。
 まず、第三者の選別です。それには無論私達が当て嵌まるのですが、何故私達を選んだのか、その理由も解っているつもりです。
 私は三日ほど前まで新聞に名前が乗っていました。黒山総合病院での大量殺人事件について、警察にちょっとした助言をしたことがマスコミに流れていたので す。その記事があなたの目に留まった。栞ちゃんの自殺の証明には、それなりの腕を持った人材が必要だったのです。しかし、あまり頭が切れすぎても都合が悪 い。適度に頭が切れる、栞ちゃんの自殺だけを証明してくれる探偵が必要だったんです。あなたは新聞で私の名前をチェックすると、事務所でも言っていたよう にイエローページをご覧になったのでしょう。そこで私達のやっている私立探偵事務所が大体どんなものかを調べた。それによって、総人員二名の小さな私立探 偵事務所であることが解った。新聞に載るほどの男だが事務所の規模は小さい。そういったことから、これはちょうど良いとでも思ったのでしょうか、あなたは 私に第三者の探偵役を演じてもらうことに決めた。そうしてあなたは一昨日、私達の前へ姿を現したのです。タクシーでね。そうしてすぐに調査に取り掛かって もらうことに決めていた。私達はあなたに促されるまでも無く、早速調査に取り掛かることにした。あなたは、今日からやってくれと言い募らずに済んでほっと したことでしょう。そして私達はあなたの待たせておいたタクシーで、あなたのアパートへと向かった。
 私達は部屋の中へ入ると、早速栞ちゃんの部屋へ向かいました。あなたの仕掛け第一があるところです。順番から言ってそこからのほうが自然に進んだでしょ う。でもまぁ、別に居間から始めても悪くは無い作りになっていました。しかし、栞ちゃんの部屋の仕掛けから見つけたほうがスムーズに行くのです。私達はあ なたの思惑通りに進んでいきました。ちょっとしたハプニングが幸いしたのですが、早速私は仕掛け第一を発見してしまったのです。それは即ち本棚の下に置か れていた、一冊のブックカバー付きの本でした。中身はクリスティの『そして誰もいなくなった』でしたが、これは別に関係が無さそうだったので無視しまし た。問題はブックカバー表に刻まれていた文字です。栞≠ニDefault≠ニ読むことが出来ます。最初は、私はそのままで意味を解釈しようと試みまし た。そしてそれによって仮説が一つ出来上がったのです。
 本というのは、天井と言うんでしょうか、縦に立てて上から覗き込むようにして見ると、あるページの部分が微妙に開いて見えるときがあります。それは中に 入っていた栞や新刊案内などの厚みによって見えるものです。ですからこの厚みのページを開けば、栞か新刊案内が挟まれているのを発見できるというわけで す。そしてこれは消費者にはどうしようもない癖です。書店に並ぶ時には既に栞は挟まれており、買い物客にはその栞の挟まれている位置はどうしようもありま せん。買い物客には操作できない初期設定。それが栞Default≠フ意味することだと解釈してみました。そして実際に上から覗き込んで見ると、案の定 栞か何かが挟まれているようでした。私は少々苦心してそのページを開くことに成功しました。やはり栞が挟まれていました。その内容に関しては別に関係は無 いだろうとは思いましたが、ざっと流し読みしたところ、やはり関係がありそうな文面は見つけられませんでした。では私の栞Default≠ノ対する第一 の仮説は間違っていたのでしょうか。この時点でそれを証明することは不可能です。そのページにはまだ他にも情報があります。それは即ちページ数です。私は とりあえず、そのページ数だけをメモしておきました。
 私は栞の挟まれていたページを開こうと苦心しながら、他の仮説は無いものかとも考えていました。そしてまた仮説を立てたのです。Defaultとは日本 語で、主にコンピュータの初期設定なんかのことを言います。ここから一つ。他にも怠慢や欠場などの意味がありますから、そこからもまた仮説が立てられまし た。しかし、日本人がDefault≠ニいう言葉を使う時は、大抵前者ですから、恐らく後者の仮説は違うだろうとも思いました。ではその、新たな二つの 仮説とは何だったのかと言いますと、前者の意味の仮説は、コンピュータを開いた時に勝手に出てくるファイル――スタートアップに登録されているファイルが あれば、そこに何か秘密が隠されているのだろう、もしかすると先にメモしたページ数が鍵になるのかもしれない、というようなもので、もう一つ後者の意味の 仮説は、先に調べたページ数を何かから省くと何かが解る、というものでしたが、一体何から省けば良いのか。それはDefaultのもう一つの意味、コン ピューターの初期設定からか、とも考えましたが、Defaultの意味をそこまで複雑にすると解り難くなるのではないかと考えました。それに特定の何かを 示すのに、何かから省く、というと余りが多く、特定の何かを探しにくくなるのではとも考えました。とにかくコンピュータの有る無しに問題が移ってきまし た。それで私は早速居間――ここに来てパソコンは無いかと訊いたのです。あなたはそれで、事が上手く運んでいるようで喜んだでしょう。私は私で、パソコン があることが解って自分の仮説が正解なのではと思い始め、期待が高まっていました。
 ノートパソコンを起動させると、やはりと言うべきか、やったと言うべきか、私が何も触れることなく開いてくれる、スタートアップに入れられていたワード ファイルが開きました。そして現れたのは大量の掌編小説集でした。フッターにはちゃんとページ数がふってありました。そこで私はメモしておいた栞の挟まれ ていたページと同じページを探しました。そして探り当てたページには、ちょうどそのページから始まる一つの掌編恋愛小説『Absolute Day』が載っていたのです。
 ここであなたはミスをしましたね。あなたが私を選んだ理由には、私が推理小説を読んでいるということも含まれていたことでしょう。新聞にはそういったこ とまで書かれてしまいましたからね。あなたも当然それを読んで知っていた事でしょう。だからブックカバーの暗号と言う推理小説的トリックで私を誘導しよう などとも考えたのです。しかし、あなたはやはり私を見くびっておられた。私はこれでも数多くの推理小説を読んできたつもりです。それはつまり、プロの書い た小説という上手い文章を何度も読んできたということです。あなたの下手な修正などすぐに違和感を感じて気づきましたよ。
 栞ちゃんが小説を書いていたというのは本当でしょう。あなたはそれを利用したのです。ブックカバーの暗号で私をノートパソコンまで導き、スタートアップ のワードファイルの中から特定のページ――栞Default≠ノよって導き出されたページまで導き、あなたの手によって修正された『Absolute Day』まで導いた。そこまでは良かったのです。しかし、『Absolute Day』の修正が失敗だった。
 あなたがやったことを順に話しましょう。あなたはまず、栞や新刊案内で開き癖のついていない本を探した。もし開き癖が着いているとそこに栞を挟まなけれ ばならず――開き癖のついているページで無い所に栞があるのは変ですからね――あなた自身の意思で栞を挟むページを決められなかった。それで見つけたのが クリスティの『そして誰もいなくなった』でした。しかし開き癖の無い本なら他にもあったでしょう。あれだけ多く本があるのですからね。しかしその中でも、 『そして誰もいなくなった』だったのは単なる偶然でしょう。一番早く見つけた開き癖の無い本が、たまたまそれだったというだけのこと。ただ、開き癖の無い 本なら何でも良かった。では何故開き癖の無い本で無ければならなかったのか。それは、栞ちゃんの手によってワードで作成された掌編小説、あれは全てがペー ジの一番初めからタイトルが書かれていて始まっているわけではありませんでした。中には紙の真中あたりから始まる作品もあった。その中でタイトルが右端か ら始まるものでなければならなかった理由は、ただ探偵側の不便を考えての事でしょう。それ以前の作品の結末部分だけがはみ出して書かれていては、これまで 関係あるのかと疑い、間違った道へ行ってしまわないようにという心遣い。そしてその中で栞の挟まれていて不自然で無い文庫本の真中あたりのページ数と合 う、右端からタイトルの合う作品が、『Absolute Day』だったということです。
 そして次に、それらを見つけたあなたは、あなたの都合が良いように『Absolute Day』を修正しなければならなかった。作品中に白神神社≠ニいう単語を入れなければならなかったのです。
 しかし私は、読んですぐに作為的な修正に気づきました。まずその単語の入れ方が不自然でしたし、ハッキリ言って文章が下手です。それに表現の間違いも見 受けられました。作中の少年ですが、彼がしている行動描写の内に、箒を掃いていた、という表現があります。箒を掃くとは奇人ですね。正しくは、箒で塵を掃 いていた、でしょう。それまでの文章は、そんな単純なミスはしていません。それがいきなり文体も変わってしまっていました。小説を読みなれていればあれに は違和感を感じるでしょう。しかも、他にも大きなミスがありました。題名の『Absolute Day』これをあなたは、少年の誕生日だと解釈したようですが、そうすると冒頭に書かれている誕生日――九月というのと、あなたが修正する寸前の文章、少 女が白い息を吐きながら走っている、という描写と矛盾するんです。『Absolute Day』が彼の誕生日である九月なら、白い息など出る筈が無いでしょう。『Absolute Day』というのは本来はクリスマスのことだったんですよ。そのことについての描写は無かったんですかね、森崎さん。まぁ、後で纏めてお聞きするとしま しょう。
 私は白神神社≠ニいう、嫌に現実的な名前に目を留め、これがキーワードだろうと思いました。そして御参りと称して行ってみることにしたのです。何故こ の時、御参りなどと言ったのか、というのは、まだその時にはこれがあなたの仕掛けだとは確信が持てなかったのです。後で間違いだった時と解った時のための 保身として言っておきました。弱気なものですね。まぁ、それは措いといて。
 さて、ここでまた栞Default≠ェ再登場することになります。これにはまだ他にも意味があったのです。私は白神神社≠ニいう新たなキーワードを 得てそれに気づきました。栞Default≠フ栞≠ニいう文字。これはよく見ると、文字絵のようにも見えます。木の上にある鳥居です。そして Default=Aこれは木の上の鳥居の元々の位置か、鳥居の下の木の元々の位置、という意味だと思いました。それはつまり、どちらかが移動されてい て、元の位置、などという言葉が使えるわけですから、昔からずっとそこにあるであろう鳥居の元の位置のことではないだろうと思いました。移動するなら木の ほうが自然です。そしてその木の位置は鳥居の下であろうということも文字絵から推測できます。
 白神神社に着くと、石段の前に建築途中の家がありました。石段の上には鳥居があります。ということは恐らく、建築途中の家があるところに、木が一本立っ ていたであろうと思いました。そして私は神社の神主さんに訊き、私の予想通りである事を確かめました。これで、あなたの依頼していた遺書の場所は解りまし た。建築途中の家の下、地面の中に埋められているのでしょう。
 さて、長い長い私の調査報告はひとまずここまでにしておいて……どうでしょう、間違っている所はありませんか、森崎恭子さん?」
 澄沢君の長い話の間に、恭子さんは段々と落ち着いていった様子で、最終的には俯いてしまい、長い髪で表情を隠してしまっていた。
「……驚きました」
 暫く無言が続いた後、恭子さんがポツリと呟いた。
「まさかそこまで解っていたとは」
 そう言うと、長い髪を宙に舞わせるほどの勢いで恭子さんは顔を上げた。彼女の表情には、笑顔が張り付いていた。冷たい、怖ろしい、笑顔という言葉を使いたくないような表情だった。私は鳥肌がたった。
 澄沢君はそれを無表情に見返す。車中の無表情とはまた違う。冷たさの漂う無表情。そして、恭子さんの冷たさとはまた違った冷たい鋭利な冷眼。
「……その通りですよ。全くあなたの言うとおりです。間違っている所なんて一つもありません」
「…………」
「あなたに全部ばれてしまいましたから、私の計画は台無しです。そこで相談なんですが――」
「残念ですが、もう遺書は手に入れてあります」
 澄沢君の素早い行動に、恭子さんは驚いているようだった。かく言う私も驚いていたのだが。
「そうですか。返してくれます」
 そう言って恭子さんは掌を澄沢君に向かって出した。どうするのかと思って澄沢君を見守っていると、
「それは無理です」
 それだけ言って澄沢君は黙り込んでしまった。恭子さんは悔しそうな表情になって言う。
「……でも、遺書は栞が書いたものですよ。筆跡鑑定すれば解ります」
「筆跡鑑定などどうにでもなります」
「私が母親だからですか?」
「母親だからではありません。母親でなくとも、この部屋に訪れた事がある者なら栞ちゃんの筆跡を入手する事は出来るでしょう」
「じゃあ栞にお香をあげに来た大勢の人たちにも可能だったと――」
「愚問ですね。あなた以外の人が栞ちゃんの筆跡を真似て遺書を偽造する必要がありますか」
「……ふふ、やっぱり私だけって事になりますか」
「お認めになりますか? あなたが栞ちゃんの筆跡を真似て遺書を偽造したと言う事を」
 そう言う澄沢君の声にいくらか緊張味が感じられた。私も背筋を正して応えを待った。ずっと立っているので足が疲れていることにここで気づいた。
「いいえ、認めません」
 無気味な微笑を湛えながら、恭子さんは澄沢君の目を真正面から見据える。
「……人間の記憶の倉庫というのは、簡単に言えば、長時間の放置による正当な処理による忘却と、短時間の多忙による手続きミスによる忘却、そして長時間の 多忙による手続きミスによる忘却という三通りの理由で、情報を倉庫の外に捨ててしまう――つまり、忘れてしまうものだと思います」
 一体何を言い出すの、澄沢君。と言ってやりたいところだったが、私の口は開いてくれなかった。いや開けなかった。私はやはり、<ヴァン・ダイン>を気取る事にしたほうが良さそうだ。
「なんですか?」
「もうお忘れですか。『その通りですよ。全くあなたの言うとおりです』と、先ほど言ったばかりではありませんか」
「ああ……そのことが言いたかったんですか」
「そうです。あなたは一度認めている事を否定するんですか? それなら何故一度認めたんです。私の言ったことが『全く』正しいと」
「…………」
 恭子さんの微笑は消えていた。今度は髪で顔が隠れるような事は無く、私には彼女の表情がよく見えた。しかし彼女の顔に表情は無かった。何を考えているのか解らない、第三の無表情。
「お訊きしても良いですか」
「……なんですか?」
「栞ちゃんは文学少女ではありませんでしたね」
 妙に断定的な口調でうそぶく澄沢君だったが、またも意外なことを言う。一体何を考えているのか。彼は自分の事、自分の意見をよく話す人間だと思っていた が、その裏で、重要な事は隠しているのかもしれない。話せる事を自分から進んで話して聞かせることによって、彼はなんでも離す人間である印象のほうが強い が、本当に話せないことは話さない、秘密主義――推理小説の探偵によくある癖を、彼もまた持ち合わせているのだろうか。
「どうしてそんなことを?」
 馬鹿な事を、といった調子で笑いながら恭子さんが問い返す。
「埃までわざわざ用意したようですが、あれは逆効果でしたね。あんなピカピカな部屋で、本棚の下だけあんなに埃が溜まっていると言うのは不自然です。それ にあの二つの本棚。部屋の内装の中では突出して目立っています。部屋の全体的な雰囲気にそぐわない代物です。あんな置き方では疑いたくもなる。
 とは言っても、女性であるあなただけでは家具の移動もままならなかったのでしょうね。この家に引っ越してきた時は引っ越し業者の人が家具を運んでくれま すが、引越しが済んで何年も経った今となっては、引越し業者の方が家具の移動にわざわざやってきてくれるわけもありませんしね。
 あの本棚はあなた、森崎恭子さんの物でしょう。そしてその中身も。推理小説の愛読家だったのは栞ちゃんではなくあなただったんですね。
 結構な古本や絶版本までありましたからね。貧しい家庭の栞ちゃんに、そんな高価な本を買うお金があったとは思えません。あなたの若かった頃、普通の値段だった時に購入したのでしょう。
 では何故本棚を、そして推理小説の本を栞ちゃんの部屋に移動したのか? それは遺書を見つけ出すためのあのややこしい誘導法を取った理由を少しでも正当化しようとするためですね。
 推理小説を愛読していた人なら、あんな宝探しごっこのようなことをしかねない。しかも子どもだ。そう思わせるために、苦労して本棚を運び入れ――恐らく 中身は部屋の中で入れたのでしょうが――、そして埃までも下に撒いた。その作業が仇となったわけですね。本棚など、べつに自室に置いておく必要は無い。広 い居間に置いておいたほうが自然だったではありませんか。
 あなたは抜かりがありすぎた」
「……そこまで見破っていたんですか。
 本当に、言われてみれば簡単なミスをたくさんしてますね、私」
 私もそれと同じ事を言いたい気分だった。私は哀れなワトスンというわけだ。
「ただ解らない事が一つだけあります。それは――」
「私が栞を殺したのか、ですか」
「おや、最初の質問、覚えておいででしたか」
「はい。あなたに最初その事を指摘されたときから、その質問が頭を離れませんでした」
「ほう……」
 そこで何故か、澄沢君は興味深げに目を細めて恭子さんを見た。恭子さんは俯いて沈黙してしまっている。またも長い髪で表情は窺えない。
「あなたが殺したんですね」
 澄沢君の断定的な問いに、怒りの感情を爆発させた恭子さんは、髪を振り乱して澄沢君に一歩詰め寄った。そして声を張り上げ反論する。
「なんですって。私が栞を殺したですって? 馬鹿馬鹿しい! 冗談もいい加減にしてください。
 遺書見つかったんでしょ。だったらそれを読めば解るんじゃないかしら、自殺だって事が。どうせ読んだんでしょ。解っててどうしてそんな事を言うのか理解できないわ!」
 完全に取り乱した様子の恭子さんを、澄沢君は冷然と見詰めていた。私の方は、どうなることかと心配で、心臓が激しい鼓動を繰り返していた。
「ふふ、名演技ですね。これぞまさしく、オスカー賞ものの演技と比喩するに相応しい。
 ええ、読みましたよ、栞ちゃんの遺書は。あなたの偽造した遺書ではなく、本物の栞ちゃんの遺書をね」
 私の心臓の速度をより速めるような新事実を暴露した澄沢君の言葉だったが、恭子さんは眉毛をピクリと動かせる程度で、殆ど反応を見せなかったのだから凄 い。一瞬動揺したが、ガセネタであると思ってなんとか耐えたのかもしれない。私も実はそう思っていた。いったいいつ栞ちゃんの書いた本物の遺書を見つけ出 したと言うのか。まさか栞ちゃんは遺書を実家の方へ送っていたなどと言う事はないと思うが。澄沢君が私の心中を読んだかのように言葉を継ぐ。
「本物の遺書は、ある文庫本のカバー裏に書かれていたのです。皮肉な事に、あなたはわざわざ、私に本物の遺書を発見させるために本棚を移動したようなものだったわけですね」
 栞ちゃんの部屋で夢中で読んでいたのは本物の遺書だったらしい。そんなこととは知らず、私はベッドの下なんかを覗いたりしていた。
「あなたは遺書を劇的に発見させる事によって遺書の価値を高め、自殺である事を信じさせようとしただけでなく、その遺書自体を偽造した。
 なにせ栞ちゃんのものと思しき遺書が二つも見つかったのですからね。これはどちらかが偽物だと疑いたくもなる。
 実は私は元刑事でしてね。建設途中の家の敷地で穴掘りをやるのも知り合いの刑事に頼んでやってもらったんです。私は青森訪問などで大変でしたし、人の敷地に穴を掘るなんて、警察官でない私には難しいことですからね。
 そして掘り出してもらったあなたの偽造遺書と私の見つけた本物の遺書。これらの指紋を採取してもらいました。本来の仕事で忙しく中々結果は出ないかと思ったのですが、鑑識にも気の良い知り合いがいましてね、今朝わざわざ持ってきてくれました。
 まったく、こんなにもボロが多いと、あなたを嵌めた真犯人がいるのではないかと疑いたくもなってきますよ。しかしそんな人物も見当たらない。
 で、出てきた指紋ですが、一方からは栞ちゃんの指紋だけが、もう一方からはあなたの指紋だけが見つかったのです。つまり栞ちゃんの指紋だけが出てきたほうが本物の遺書で、あなたの指紋だけが出てきたほうが偽造遺書だという事になります。
 どちらが本物の遺書か偽造遺書かが分かった私は、次に二つの遺書の文章を読み比べて見ました。
 違いは歴然。偽造遺書の内容は、いじめと受験勉強の忙しさからくる精神的負担が理由で自殺する、といったことが書かれていました。
 本物の遺書の方は……偽造遺書と同じ部分が一箇所だけありました。最初の一文です。
 話が前後しましたが、これまで本物の遺書、本物の遺書と言ってきましたが、これには下書きがあったと思われます。大学ノートに書かれた下書きです。あな たはその一文だけを千切って私の事務所に持ってきたのですね。残念ながら残りの大部分はあなたが処分してしまったのではないかと思いますが。しかしあなた も処分する前に読んだのでしょう、栞ちゃんの書いた本物の遺書を。内容は清書と同じ筈です。私の持っている清書はボールペンで書かれていましたが、あなた の持ってきた大学ノートの切れ端は鉛筆で書かれていた――太さから言ってシャープペンシルではなかったですね。清書というのは、下書きの内容を奇麗に書く ためにあります。せっかく下書きを書いたのに、その下書きを無視した清書など清書とは言えません。
 私が手に入れたのは清書のほうです。あなたが読んだであろうものと同じものを私も読ませていただきました」
 そこまで言って、澄沢君は暫く口を閉じた。そして、意を決したように再び口を開く。
「あなたはあれを読んで、動揺したのでしょうか。私はそうだと信じたい。あなたは心底までは悪になりきれなかった。その深層心理が作用し、あなたに多量の些細な失敗を犯させた。そうではないのですか、森崎さん。
 私はそうであることを確かめようと、騙されたふりをして調査してきましたが、やはりあなたは罪悪を感じているらしいということが解ってきました。だから私はあなたに自首していただきたく、警察にはまだ事情を全て打ち明けていません。自首してください」


     

 その後、恭子さんを無事に地元の警察署まで連れて行って自首の手続きを済ませると、澄沢君と私は事務所へ帰る事になった。その帰りの車中でのこと。私は澄沢君に、溜まった疑問をぶつける事にした。
「ねぇ、本当に恭子さんが栞ちゃんを殺したの?」
「ん、ああ。そうとしか考えられないんだよ。そうか、桜さんは遺書読んでないんだっけ、栞ちゃんが書いた本物の遺書」
「あ、読んでない。今持ってるの?」
「うん、持ってるよ。でも実物の方はカバー二枚分で読みにくいし、鑑識の知り合いに渡さなきゃならなかったから、パソコンで打ち直して印刷した複製だけどね」
 そう言いながら、澄沢君はハンドルを操作している手とは逆の、もう一方の手で背広の内ポケットを探り、少し苦労して取り出すと、私はそれを受け取ってじっくりと読んだ。
 それを読み終える頃には、私の目には薄っすらと涙が溜まっていた。そして確かに栞ちゃんは自殺したのではないという確信を持っていた。もうこれ以上澄沢君に質問する必要は無さそうだった。
 少なくとも栞ちゃんは自殺ではない。では事故かというとそんな筈もない。事故でタオルがカーテンレールに引っ掛かって首がそのタオルで出来た輪に通って しまい死ぬなんていうことは考えられない。やはり他殺しか考えられなくなる。では誰かという問題になると、これはもう恭子さん以外にはいなくなってしま う。澄沢君の調査によれば、御隣の部屋の人は勿論、同じアパートの住人とは全然関わることもなく、ただ勤め先とアパートの往復――時にはお客に着いて行く 事もあったろうが――だけだったということだから、容疑者は自然と恭子さん一人になってしまうのだ。しかも現場がアパートの自室だというのだから決定的 だ。動機の面から考えても、栞ちゃんをいじめる子はいたにしろ、わざわざ家まで来て殺すというのもありえそうにない。どう考えても犯人は恭子さん以外に考 えられないのだ。
 証拠は、偽造遺書についた指紋。そして、本物の遺書の下書きを全文持っていながら、最初の部分だけを千切って持ってきたという事実。こういったことをする必要があったのは、犯人である恭子さんだけである。
 恭子さんは、栞ちゃんを自殺に見せかけて殺した後、栞ちゃんの書いた遺書を発見した。
 その遺書は、遺書と言っても良い内容ではあったが、実は栞ちゃんが遺書を書くつもりで書いた遺書ではなかった。結果的に遺書となってしまったが、これは栞ちゃんがふざけて書いた、遺書ごっこで書いたようなものなのだ。
 まさか母親に殺されるとは思ってもいなかった栞ちゃんが、もし遺書を書くならこう書くだろう、ということで書いたのが、恭子さんと澄沢君が見つけた下書きと清書だった。
 清書が母親である恭子さんの本棚の中の文庫本のカバー裏に書かれていたのは、栞ちゃんが意図して行ったものだろう。それを匂わす文章も書かれていた。
 口頭では言いにくいことも、一人で文章に書いてしまえば、あとはそれを見せるだけになる。だがその見せる行為も、中々勇気のいる仕事で、栞ちゃんは運命 の神に委ねることにしたのかもしれない。母親は推理小説が好きなようだし、なにかすると知らぬ間に見つけられて、そして読まれて、自分の言いたいことが自 然と伝わるかもしれない。そんな思いが込められていたのではないだろうか。
 運命とは皮肉なものだ、とはよく言ったものだ。今回もまた、皮肉な結果となってしまった。殺される前に見つけられていれば、殺人は起こらなかったかもしれないのに。
 運命なんかに頼って生きてはいけない、そういうことなのだろうか。運命とは自分で選んで辿ってきた人生を回想する時にのみ使えるのかもしれない。
 私はこの事件に関わる事で、そんな教訓を得られたような気がする。


     10 森崎栞の遺書

 お母さん、先立つ不孝をお許し下さい――なんて書いて自殺したら、お母さんはどんな顔をするだろう。悲しんでくれるだろうか。

 お母さんは、私を虐待する事は無い。でも、時折怒って手を上げるときがある。そんな時、後ちょっとで殴られる、そう思った時お母さんは必ずと言って良いほどこの台詞を言って手を止めるのだ。
「ああ、危ない危ない。怪我でもされたら学校に怪しまれて児童相談所に通報されかねないからね」
 でも私には、そんな事を言う寸前のお母さんの表情が、いつも後悔の念を湛えている様に見える。私を殴りそうになった、自分を嫌悪しているような。
 これは私の希望が見せる幻影なのかもしれない。でも私はその通りであると信じたいし、実際信じてもいる。
 お母さんは、親戚の人皆に嫌われているようでいつも愚痴をこぼしている。それにお父さんも事故で死んでしまい、お母さんは相当自暴自棄になっている。
 それでもお母さんは、どんな悪口を言われようが、ちゃんと仕事に行って、お金を持ってきてくれる。そして私にもちゃんとご飯を食べさせてくれる。
 私は一度食事中、お母さんに私のお椀にご飯を入れてもらった時に、恥ずかしがりながらも「ありがとう」と言ったことがあった。その時お母さんは、何かを必死に我慢しているような顔になり、こう言った。
「ふん、ご飯ぐらい食べさせないと、痩せて児童相談所に怪しまれるでしょ」
 いつも逃げ口上は『児童相談所』だ。私は可笑しくて笑ってしまった。普段なら怒って罵言を浴びせに掛かってくるお母さんも、この時は何も言ってこなかった。私は嬉しくて、その夜はその事を何度も空想して、ベッドの中で一人笑っていた。

 私はそんなお母さんが大好きだ。ちょっと怖いのは確かだけれど、それでも優しさがちゃんとある。だから私は、大人になったら、お金の稼げる仕事につい て、お母さんに楽をさせてあげたい。幸せになってもらいたい。それでもまだ私に罵言を浴びせていたって構わない。お母さんが幸せだと解れbそれで良い。そ のためにも今は勉強を頑張らなければいけない。
 でも最近、お母さんの職業がどういうわけかバレてしまい、学校で大勢の同級生にいじめられるようになった。でも私はそんないじめなどには屈さない。私は人をいじめてストレスを発散するような、捻じ曲がった精神の持ち主ではない。
 普通人をいじめたら罪悪感を感じるはずなのに、何故優越感を感じられるのか、私には理解が出来ないことだった。私はそんな捻じ曲がった精神所有者達を、 哀れみの心で眺めていた。何度も諭そうとしたのだが、私の言う事には聴く耳を持ってくれないようで無駄だった。無駄だと解った以上、時間を有効利用するた めにも、私はいじめを無視して勉強に専念する事にしなければならない。パソコンで小説を書くのもやめにしなければいけなくなった。
 パソコンの小説と言えば、私はパソコンの小説にお母さんの気を引けるようにちょっとした仕掛けを仕組んでおいたのだが、お母さんは最近仕事で忙しいらし く、全然意味が無い。その仕掛けというのは、スタートアップに私の書いている小説を入れておき、パソコンの電源を入れるとその小説のファイルが勝手に開く というもの。そしてその小説は、題名が全部奇麗に端から始まってはいない。つまり作品間の改行がされていない見映えの悪い状態で保存されていると言うわけ だ。そんな状態の小説を見たら、お母さんが私にその事を指摘してくれるかもしれない。そんな期待を抱いて、私はその仕掛けを残しておいたのだが。
 お母さんは私にあまり構ってくれない。でもそれは仕方の無いことだ。仕事で忙しいのだから。私達二人が生活していくための、仕方の無い犠牲なのだから。
 たとえ私以外の親戚の人達皆がお母さんの事を誤解して嫌っていようと、私がお母さんを嫌いになることはない。
 誰も、お母さんの本質を見ようとはしない。それでいて分かったようなことを言って罵るのだから、甚だ愚かな人間が多くいたものだ。
 いつか私のこの気持ちも、お母さんに解ってもらえる日が来たら、お母さんと仲良く平和に暮らしていけたらと、そういうことを夜毎妄想する。そして私はその世界の幸福に涙を流し感激する。
 私が何を言おうと、お母さんが聴く耳を持ってくれるとは思えない。だったら、ということで私はこの文章を書いているのだが、やはりこれを渡すのにも結構勇気がいるし、普通に渡すのでは読まずに目の前で破り捨てられそうで怖い。
 だから私のいない間に、お母さんがこっそり読めるようなところに隠しておこうと思う。お母さんは推理小説が好きなようだから、それらしい所に隠そう。
 いつ見つかるのだろうか。楽しみと不安の入り混じった微妙な気持ちが、私の心中で渦巻いている。

森崎栞 

(了)


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