白き鷺は静かに降る雪の中で


参考イメージ図
《白き鷺は静かに降る雪の中で》



 周囲には雪があり、そして何も無かった。

 カンバスのちょうど中心辺りから、黒い箸のようなものが、十度程の角度で開きながら、画面の左上へ向かって、二本それぞれ先窄まるよう放射線状に描かれている。
 そして、その中心点のやや右にずれた所に、黒い二重丸が、中の丸と外の丸の輪郭部分だけが白い線として区切られ、存在していた。
 さらに、先の黒い箸の、上に描かれた方の一本の黒線の上端から下端の幅を持って、二重黒点の上端から下端に至るまでの過程には、灰色で塗られた道程があり、その灰色の中、上方の黒い箸寄りに一つの小さな読点のようなものが描かれてもいる。
 だが、それだけだ。それ以外には、何も描かれていない。
 いや、画面全体が白い絵具で塗り潰されてはいる。だが、それを「描写」と表現して良いのだろうか。ただ単純にベタ塗りされた白が、降り積もった雪を表しているのだという事は、題名を聞けば理解できないことはないだろう。

《白き鷺は静かに降る雪の中で》

 そうして、黒い箸や二重黒点、そしてそれらを繋ぐ灰色の連絡橋と読点。それらは白い鷺の嘴と目玉、そして鼻を描いているのだということも、同時に理解できないこともないかもしれない。
 誰が見たところで、このような手抜きの絵を傑作として祭り上げようなどとは思うまい。
 だが、この絵は、ものの数分で完成されたかのようでいて、実質、十八年もの年月を要して完成されたのだ。
 これは、画家の心象風景だった。

 周囲には雪があり、そして何も無かった。

 それだけの事を知覚するのに、体などというものは必要無い。
 目で見て雪の存在を推測し、鼻で嗅いで雪の無臭性を確かめ、その存在を知る。
 そして口は――
 開かれた嘴。描かれているこの鷺は、鳴いているのだろうか。それとも哭いているのか。
 どちらにしたところで、この鷺がその声を上げているだろう事が推測される。
 それはつまり、自己主張を意味するのではないだろうか。
 これは彼の、自らがここにいることの訴え。

 白き鷺は静かに降る雪の中で――

 画家は思った。これはあまりにも正鵠を射過ぎているようだ。
 この心象風景を思い浮かべたとき、こうまで人の心とは具現化することが出来る物かと、感心したほどだった。

 目、鼻、口、これらは、人間の意思によって、ある程度開閉をコントロールできる器官である。それはつまり、自我的な器官であると言って良いのではないだろうか。
 それに反し、耳ばかりは、塞いでも塞いでも、中々に音を完全遮断することは難しい。それはつまり、本能的な器官と言って良いのではないだろうか。だから彼は、耳だけは描かなかった。
 故に声――それによる自己主張こそが、他者に自己の存在を知らしめる最も有効な手段なのではないだろうか。
 白き鷺は、自らの体が白いことにより、降り積もった雪の中では自身がそこにいることを目で見て確かめてもらう事は難しいと考えた。
 匂いにしても、汚れの無いその体から発せられる体臭程度では、自身がそこにいることに気づいてもらえるかどうか、難しいと考えた。
 ならば、こちらからその存在を知ってもらおうと、主張しなければならない。
 その為に鳴こう。
 そうして――

 白き鷺は静かに降る雪の中で

 ――一際、グァーッと、田舎臭い鳴き声を上げた。

     *

「なんとも、曖昧模糊とした画題だなぁ」
 鑑賞者はまず、そんな感想を漏らした。
 鑑賞者とはすなわち、画家本人のことである。彼は、自らの心象風景を描いた。だがそれは、なんとなく、だった。
 いわば、これは彼にとって印象派的な作品になる。
 モネの《日傘を差す女》を見て、これこそが印象派の極致だと感動して以来、印象派を意識した絵を描こうと思ってきた彼だったが、それで初めて完成させることのできた作品がこれである。
曖昧模糊≠ニいう表現を使ったが、果たしてそれは、絵画作品として良い感想なのだろうか。
 いや、これは駄目だ。彼はそう判断した。
 世界的名画たる《日傘を差す女》とこの絵を比べるのは、あまりにも馬鹿げたことではあるが、モネの作品は万人に受け止め得る印象≠ェある。それに反 し、自分のこの絵はどうだ。ほぼ完璧なまでに理解不能と言って良いだろう。これでは揶揄してシュールレアリスムと言われるのが精々だ。
 このままでは鑑賞者は自分一人。
 だが、それで良いのではないかとも思った。
 自分は別に、自分以外の人間を感動させようと思ってこの絵を描いたわけでもないのだし、ましてやなんとなく≠ナ描き上げた作品だ。他人に理解してもらうには、自らが率先してその意味するところを解説せねばならないだろう。
 そう、自己主張の必要性。
 この画題はそれなのだ。
 人間が日頃、意識せずに使用している目でも鼻でもなく、口による発声という、否が応にも自我という意思の介在を必要とする方法で、否が応にも本能的にその声を受け止めてしまう耳へと、自己主張をしなければならない。
 そうしなければ、この白き鷺は、雪という自らの抱く美しき幻想の中で、孤独な死を迎えるより他無いだろう。
 果たして、その孤独な死が幸か不幸かは別問題として、人間は、「何もしないでいる」ということのできない生き物である。
 この絵の意味が知りたくば、画家本人に問いただせば良いだけのこと。そうでもしなければ、画家は――作者は、何も知らずに、君を無視するより他無いのだ。
 だが耳は、本能的に他者の存在を知るために常に開け放たれ、来るものは拒まない。
 口は、君にその意思さえあれば、誰にでもその存在を知らしめることができるようにできている。
 ところで、君は鳴いてみようと思うか、それとも哭いてみようと思うか?

〈了〉


戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送