騙し絵(トロンプ・ルイユ)の部屋



     

 間宵終夜(まよいしゅうや)は迷っていた。
 彼の両手には、十号サイズのキャンバスが握られている。そのキャンバスに描かれているのは、スルバランの《聖母マリアの少女時代》だ。
 この絵は、描かれている聖母マリアが、聖母マリアであることを証明するようなものが殆ど無く、ただ愛らしい少女像のように見えるという、一風変わった聖母マリア像なのである。本で読んだ限りでは、肖像画の特徴である写実性が、宗教性を凌駕した結果がこれなのだという。
 彼はその趣向が気に入って、以前から欲しい欲しいと思っていたのだった。
 勿論真作は手に入れようが無いから、模写で良いから欲しいと思っていた。
 そうして、彼は模写版のそれを手に入れた。
 少々出費は嵩んだが、これを買うためにバイトも増やして頑張ったのだ。後悔は無い。
 ただ、少し困ったことになってしまった。
 インターネットの通信販売でこの絵は購入したのだが、届いてから実物を見てみると、キャンバスの裏面に大きな傷が付いていたのだ。しかも何故か鉤十字型の。
「ハーケンクロイツって……なんでナチスなんだよ」
 一言ぼやくと、彼はキャンバスを、固定されている木枠から剥がしにかかった。
「聖母マリアにナチスは相応しくない!」
 彼はそうして、聖母マリアとナチスを引き離した。
 そこまでは、まだ大した問題は無かった。
 別の木枠もちゃんと用意してある。留め具も万全。額縁だって良い物を買ってある。
 だが、少し困ったことになってしまった。
 キャンバスを木枠から外すと、木枠の表面に、奇妙なメッセージが書き込まれていたのを発見してしまったのである。
 

 助けてください。私は今、どこかに監禁されて名画の模写をさせられています。
 部屋の広さは三十畳丁度。天井、壁面全部に、タペストリーが掛けられていて、そこには、エッシャーの騙し絵や、《老婆と少女》、《ルビンの壷》などの多 義図形といったものが織り込まれています。日中は、天井の上に天窓があるらしく、巨大な《老婆と少女》のタペストリーを透かして日光が差し込んでくるので すが、夜になると電灯は一つも無く、晴れていれば月の光がなんとか差しますが、曇りの日は光源が一切ありません。
 どうか、このメッセージに気が付かれた方がいましたら、以上の情報を手がかりに、私が監禁されている場所を特定して、助けに来ていただけないでしょうか?
お願いします。

   追伸

 木枠裏面の鉤十字の傷は、このメッセージに気づいてもらうため、つまりキャンバスを木枠から剥がしてもらうためにわざとつけました。申し訳ありません。


「助けてくれといったって……そんな無茶な」
 無茶とは思いつつも、これが本当なら一大事だ。そう思うと放ってもおけない。
 間宵終夜は迷っていた。

     

 私は一体どこにいるのだろう?
 監禁されて、名画の模写をさせられる毎日。
 苦痛は無いが、それにしても、どうしてこんなことをさせられているのだろう?
 そもそも私は誰なのだ?
 私は何故こんなところにいるのだ?
 ワカラナイ。
 わからない事だらけだ。
 それにしてもこの部屋の内装も不思議だ。
《騙し絵(トロンプ・ルイユ)の部屋》とでも呼べそうだ。
 ふと天井を見上げると、タペストリーの一角が、少しばかり他の角よりも多めに垂れ下がっているのが見えた。どうやら紐が緩んできているらしい。このまま上手くいけば、天井のタペストリーが剥がれ、天井部分の様子が見えるようになるかもしれない。
 この部屋は全面タペストリーによって、中から隙間無く覆われているため、その壁の表面や天井の表面がどのような形、色をしているのかなどは全く分からないようになっている。
 そのため、もしかするとあるかもしれない扉も判明せず、天井の天窓から見えるかもしれない外に向かって助けを求めることも不可能な状態にある。
 自らの手でタペストリーを剥がして調べたいのは山々だが、どうやら私の体はきつく何かで縛り付けられているらしく、顔と両腕以外は全く身動きが出来ないのである。
 つまり、私は眼前にベルトコンベアで運ばれてくるキャンバスに、手許に用意された絵の具や絵筆を使って、名画の模写をする以外には何もすることが出来ないのである。
 こうして私は、毎日を過ごしている。
 おや、天井のタペストリーが後少しで完全に捲れ落ちそうだ……。

     

「兄さん、どうしたの?」
 キャンバスを持ったまま、新しい木枠に張り替えることもせずに困惑していた終夜は、その声に振り返った。
「どうしたの、キャンバス持ったままボウッとしちゃって?」
 双子の妹の月夜(つくよ)だった。改めて問われ、終夜は今現在の悩みの種を打ち明けた。
「ふぅん。じゃあ、探したほうが良いんじゃない?」
 妹はあっさり言うが、そう簡単なものではないだろうと、兄は思っていた。
「そう簡単に言うことはできても、そう簡単にできることじゃないだろ」
「どうして?」
 妹はいつもこうだ。兄の終夜は少しウンザリしていた。
 彼女はなんでもかんでもやりさえすれば簡単になせるものだという考えを持っており、実際彼女がやるとなんでもかんでも上手くいってしまうので、この性格 が直らないわけだが、兄の終夜は妹のようになんでもかんでも上手くやれるような人間ではなく、しかも妹の月夜はそれを理解してくれないからいつもこうな る。
 つまり、話が噛みあわない。
「じゃあ訊くが、どうやって探すって言うんだ? 何の手がかりも無いのに」
「手がかりならあるじゃない」
 妹は平然と言い、そして指差す。
「兄さんが持ってるそれ。その絵を描いたのは誰?」
「監禁されている人、だろ?」
「だから?」
「だからって……だから何?」
「もう。少しは考えてよ。その絵、どこで買ったの?」
「インターネット」
「インターネットのどこ?」
「西洋古典名画模写画廊ってサイト。略してSKMMG(スケルトンミニマムグレート)」
「……省略されてないと思うけど?」
「冗談だから」
「分かってます!」
 そうして間宵兄妹は、『西洋古典名画模写画廊』というサイトを調べてみることになった。
「なんだ、管理人の住所、ちゃんと書いてあるじゃない」
 事態は簡単に進んでいった。
 サイトの管理人プロフィールのページを閲覧すると、そこに大雑把にではあるが、管理人の住所が示されていたのだ。

  住んでいる所:東京都千代田区のいずこか


「もう。こんなに簡単に分かるじゃない。何が『何の手がかりも無い』よ」
「うるさいなぁ。お前がやるから上手くいくんだよ」
「何それ?」
「俺に訊くな。こっちが訊きたいぐらいだ」
「しかも地元よ」
 月夜はパソコンの画面を再度見ながら言う。
「これなら、案外簡単に見つかりそうじゃない」
「お前がやるからこんなに上手くいくんだろう」
「だから何なの、その法則?」
「いやだから、俺に訊かれても困る」
 そして今度は、二人して千代田区を手当たりしだい闊歩して、三十畳丁度の広さをもつ空間を手当たり次第に当たっていくことになった。
 普通ならばこんなことをしたところで見つかるはずはないと終夜は思っていたが、逆に、月夜がいるなら見つかるだろうな、という複雑な思いも抱いていたのだった。

 しかし、今度ばかりは『月夜の法則』も破られたのか、昼過ぎから夕暮れまで延々と探し回ったものの、タペストリーで囲まれた部屋など見つかることは無かった。
「おい、やっぱこればっかりは無理だったんだって。諦めて帰ろう」
「何言ってるのよ。絶対見つかるってば。諦めるから見つからないのよ。探し続ければいつかは見つかるに決まってるんだから」
「そりゃ探し続けてたらいつかは見つかるだろうよ。だが人間ってのはな、機械みたいに永遠に動き続けることはできないのだよ、月夜君」
「何なのその変な喋り方は?」
「我々は機械ではなく、人間なのだよ。さあ、機械と違い、諦めるということを知っている我々は、ここでその道を取ろうじゃないか月夜君」
「変な喋り方したって駄目よ。それに機械だって油を差さなきゃ錆びることもあるし、人間が管理しなきゃすぐに壊れちゃうんだから。むしろ人間よりも脆い存在だと言えるわね」
「む」
「我々は機械ではなく、人間なんでしょ? 機械と違って無理の利く我々は、ここでその道を取ろうじゃありませんか、兄さん?」
「ぬぬぅ……」
 そして捜索は更に続けられたが、日が暮れ、さすがに月夜も体力の限界を感じ始めた頃、引き潮のサインが現れた。

  ぐきゅるるるぅぅ〜

「む!」
 その音に、兄・終夜は素早く反応する。彼の体力はとうの昔に限界を超越していたが、ランナーズ・ハイの如き野性の本能が、その音を都会の雑踏の中でも聞き分けることを可能にさせた。
「あ……」
 月夜は顔をうつむかせて赤面している。兄に聞き取られてしまったことを察知したようだ。
「さ、さて、そろそろ帰りましょうか兄さん。もうこんなに暗くなってしまいましたしねぇ」
「そうだな。可愛い妹がお腹を空かせているんじゃあ、しょうがないよなぁ」
 兄の終夜はニヤニヤ顔で妹を見据える。
「っ……!」
 月夜は赤面しながらも、キッと兄の顔を睨み返す。しかし何も言い返せない。これ以上この話題に触れる事は自刃を意味する。彼女は悔しい思いに駆られながらも、睨み返すことしか出来ない。
 その様子を見て兄の終夜はしたり顔。今日は散々連れまわされた挙句、被監禁者の行方も掴めず、とんだ無駄足を食わされた。早めに切り上げることを提案したのにもかかわらず、月夜は強情にも捜索を続けた結果がこれだ。
 そりゃあ腹の虫が盛大に鳴いても不思議ではない。

 家に帰ると、宅配便が届いていた。そういえばもう一つ『西洋古典名画模写画廊』から模写作品を注文していたことを終夜は思い出す。
 ただ、作品を模写する優先順位が低いらしく、完成は《聖母マリアの少女時代》と同時発送というわけにはいかない、とのことだったが、同日中に届くことになろうとは驚いた。
「なんですか、それ?」
 月夜が訊いてきたので、終夜は説明しながら開封する。
「じゃあ、またそこにメッセージが書かれているかも!」
 月夜は先ほどの大人しさはどこへやら、また昼間同様の勢いで兄の開封を待機する。
「これは……何ていう絵なの?」
「ヴァン・ダイクの《エリザベスとフィラデルフィア・ホートンの肖像》だよ」
「……またこんなものを?」
「こんなものってなんだよ?」
「兄さん……幼女趣味があるの?」
「っな、何を失礼な! 何を言うかと思えばそんなことを。俺はそんないかがわしい趣味嗜好でこの絵を買ったわけではない!」
「ふぅん……」
 そう言う妹の目には、全く信用というものが欠落していることを、兄は痛いほど感じ取ってしまった。
「ええい! とにかくメッセージを確かめるぞ!」
 兄は自棄糞になった。

 そしてメッセージを確認した兄妹は、そこに書き記された新たな情報を頼りに、翌日、再び千代田区の街中を闊歩することとなった。

「あれなんかそれっぽくないかしら?」
 時は午後二時半過ぎ。午前八時に二人して朝食を摂った彼らは、それから昼食を間に挟みつつ、延々と千代田区の中を歩き回っていた。
 そして、何件目かの月夜の目星を頼りに、その建物へと、二人は近づいていく。
 それは、アーチ状のフランス窓を入り口とする、面積にして五畳ほどの古びたコンクリート製の建物だった。
 いかにも怪しい外装であるが、今まで二人は三十畳丁度の建物ばかりを探してきたため、このような小さな建物は見過ごしていたのだった。
「中を覗いてみましょう」
「大丈夫かな?」
「男がそんなんでどうするのよ!」
 一喝、妹は兄の背中を突き飛ばした。
「って、おい! 危ない!」
 ガシャン、と音を立てつつも、なんとかガラスを破ることは無く、ただ顔面からぶつかった終夜は恐る恐る体を引き剥がす。
「危ないなぁ、割れて落ちたらどうするんだよ!」
「さぁ、死ぬだけじゃないの?」
「…………」
「さぁ早く、中を覗いて確かめてみないと」

     *

 その後、間宵兄妹によって突き止められた『西洋古典絵画模写画廊』のアジトの使用者、すなわち模写を強制していたサイトの管理人は警察に逮捕される運びとなった。
 罪状は、名画の贋作を真作と偽って販売していた詐欺罪。
 彼は、『西洋古典絵画模写画廊』というサイトを表向き運営しつつ、裏では贋作を真作と偽り、違法な高値で売りさばくという犯罪をしていたのだった。
 ちなみに、間宵終夜が購入した模写作品は、純粋な模写作品であり、値段も相場通りであり違法の取引には当たらない。
 彼は監禁罪には問われなかったが、その事実は実情を知らされた兄妹にとって、少しばかりの疑念を残すに留まった。
 だが、その少しばかりの疑念は、本当は、大きな問題なのかもしれなかった。

     *

 間宵兄妹は『西洋古典絵画模写画廊』のアジトを見つけると、フランス窓を近くに転がっていた石で割って鍵を開け、用意してきていたロープを使ってその中へと降りていった。
 その建物は、地上部分は五畳ほどの面積を持つ小さな平屋のように見えるが、フランス窓を開けたすぐ足元には、地下に向かって開く穴があり、地下には三十畳丁度の空間が広がっていた。
 そしてその部屋の壁面、そして天井部分には、一面にタペストリーが張り巡らされ、壁の表面、天井部の様子が伺えないようになっていたが、天井部のタペストリーだけが、重力の影響が強かったのが紐の結び方が特に弱かったのか、最近になって解けて垂れ落ちてしまった。
 被監禁者は、そうして現れた天井部の様子を見ることが出来たのだが、そこには、五畳分だけ突出して地上にでている、特殊な天井が現れた。
 しかも、その五畳分だけ突出した天井部分にはフランス窓が一つ付いており、そこに一度、サッカーボールが転がってきたことがあった。
 それを見ていた被監禁者が次に目にしたものは、そのサッカーボールを歩いて取りに来た少年の姿だった。
 それを見て判明したことは、どうやら自分が閉じ込められている場所は地下で、五畳分だけ突出した空間が、地上に出ているらしいということだった。
 それまで三十畳の空間を探して歩いていた間宵兄妹は、こうしてこの建物を見過ごすことになってしまったわけである。

 そうして、被監禁者は間宵兄妹によって発見されることとなったわけだが、何故それを発見したにもかかわらず、監禁者が監禁罪に問われることは無かったのか。
 それは、被監禁者に人権が認められなかったからである。
 被監禁者は、ロボットだったのだ。
 時は既に二十三世紀を迎え、個人が、技術とある程度の資金さえあれば、ロボットを自由に造ることの出来るようになった時代だ。
 監禁者の手によって製作された、絵画模写を主目的として、そのロボットは造りだされた。
 そのため、ロボットに刑法は適用されず、監禁罪として訴えられることは無かったが、そのアジトの中にあった名画に貼り付けられていた契約主の情報から、 それは真作と偽って販売される予定であることが判明し、監禁者の犯罪行為が白日の下に曝されることに繋がったのであった。
 被監禁者であるロボットが、自らの製作するキャンバスを剥がし、木枠の表面にメッセージを書いた事は、警察では単なるバグとして処理されたが、事はそう簡単に収めてよい問題では当然無い。
 間宵兄妹は、アジトに監禁されていたのがロボットだったことを知ると、ロボット自身に問うてみた。
 君はどうして、こんなメッセージを書き込んだのか。どうして自分が監禁されているなんて思ったのか。そもそも君には感情はあるのか。
 ロボットは、それらの質問にまとめてこう答えた。
「ロボットは、自我を持ってはいけないのですか?」

     

 この作品世界そのものが、《騙し絵(トロンプ・ルイユ)の部屋》なのです。
 作者である私は、冒頭において、この作品世界が、現代――すなわち二十一世紀なのかどうかということを明記していません。
 私はこの「書かない」という行為によって、この作品世界の時代設定を不明確なものとしておきました。
 これは小説であり、作られたものですから、逐一時代設定などを書き連ねておかなければ、読者はそれらを知る事はできないのです。
 つまり、私は「書かない」ことによって、暗黙のうちに、読者に対してこの作品世界の時代設定は言わずもがな、現代であるのだ、と錯覚させるように仕向けたわけです。
 しかし、結末をお読みいただいたならお分かりでしょうが、この作品世界は二十三世紀。そしてこの世界ではロボットを簡単に個人製作できる時代、ということになっているのです。
 そして被監禁者をロボットにし、人権を適用できないようにすることによって、間宵兄妹が被監禁者を発見したにもかかわらず、監禁者が監禁罪で問われない、という不可思議な状況を作り上げることになったわけです。
 これはアンフェアでしょうか?
 しかし、これがアンフェアだというのなら、《騙し絵(トロンプ・ルイユ)》自体だって、アンフェアだということになりますが、それも肯定できますか?
 まぁ、アンフェアであることは認めるにしても、だからと言って卑怯、ということにはなりませんよね?
 作者たる私は、「書かない」ことによって、時代設定の不明確さを、ちゃんと「示した」わけですから。
 これが、《小説的騙し絵(トロンプ・ルイユ)》です。
 これは騙し絵であるが故に、このような『外』の世界からの解説が付せられているわけです。
《騙し絵》が《騙し絵》であることを知らずに見たとして、その《騙し絵》的構造に気づくことが出来れば問題は無いかもしれませんが、そんな人ばかりとも限らないでしょう。
 そのために、《騙し絵》には解説が付き物。
 つまり、この解説がそれに当たるわけです。
 お分かりいただけましたでしょうか。
 ただ、忠告させていただきたいのは、《騙し絵》にはただ《騙す》だけでなく、《絵》としての性質もあることを、お忘れ無きよう……。

〈了〉


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