私的文学論 私的文学論

   序文

「文学」とは何だろうか。
 日頃人々が行う会話の中に置いて、「文学」という言葉はそれほど上がることはないだろう。だが文学は、確実に人々の生活の中に存在し、時には我々の口から飛び出すこともあろう。そんな時、自分が使っている言葉の意味を正しく理解せずに会話をするなどという、あまり利口とは言えない言動はとりたくないと私は思う。
 そして私は、たまたま「文学」と呼ばれるものが好きな人間である。だから「文学」という言葉は、よく目にする。そんな時、その使用者は正しく「文学」を理解して使用しているのかどうか疑問に思うときがあった。そう思うと共に、自分は、せめて自分なりの解釈をし、意味を理解した上で使用したいと思った。
 そして私はこの文章を書き始めた。

   本論

「文学」とは、文章の学問である

 一言で言うなら、ただこれだけで充分であろう。私と同じ文学観をお持ちなら、この一言で何が言いたいのか瞬時に察知してくださる筈である。だが、そうでない人がこの文章を読む事を想定して、こんな公開用に「私的文学論」などと銘打って論述しているのだから、ここで終わってしまうわけにはいかない。
 では、 「数学」という言葉の意味を考えてもらいたい。その解釈と比較すれば良い。ただそれだけで「文学」解釈は終了する。
「数学」とは、数字の学問だ。数字と記号を用いて「式」を構成し、新たな数字を導き出す。そして、その新たな数字をどうすればもっと簡単に導き出せるのか、どうしてこの新たな数字は表れたのか、などということを研究する学問である。
 それなら、「文学」とは何だろうか。
「文学」とは、文章の学問だと先述した。そして「数学」とは、数字を研究する学問だと先述した。それなら「文学」とは、文章を研究する学問であろう。だが、「文学」と「数学」は別物である。それではただ比較しただけでは「文学」を理解できないであろう。
 では、「文学」と「数学」の違いは何だろうか。「数学」とは、式を正しく構築することができれば、解釈――解答はただ一つしかありえない。だが、「数学」の場合の「式」にあてはまる、「文学」の場合の「文章」は、ただ一つの意味だけしか持たないわけではないから、必然的にその「文章」で構成されている「文学作品」も、画一的なものにはなりえない。
 「一+一」という計算式は、「二」という解答にしか成り得ない。
 だが、「私は死んでいる」という文章は、「本当」とも解釈できるし、「嘘」とも解釈できる。また、「本当かもしれないし嘘かもしれない」という解釈や、「もしこの人物が死んでいるのなら自分の死を自覚することなどできるわけがない。だからこれは、冗談か、もしくは伝奇小説か何かの空想の登場人物の発言であろう」という解釈になったりする。
 つまり、「文学」とは、文章解釈の学問である。
 そして、「文学」とは、読者が行うものであり、作家が作るものである。作家は読者に多様な解釈が出来るような文章で作品を構成したり、なるべく一つの意味にしか解釈できないような文章で作品を構成したりするわけだが、どれだけ頑張って画一的な作品にしようとしたところで、作品の根源たる言語がそれを許さないだろう。つまり、言語を用いて作られた創作物は、必然的に「文学」になってしまう、ということだ。
 たとえば、「私」という代名詞一つ取ったところで、その「私」がその文章の作者である、という定義をいちいち序文か何かで述べ立てておきでもしない限り、その「私」が誰か、などということは読者には解らないのだ。たとえコンテクストからその「私」が「その前の行で登場したAという名前の人物であろう」という解釈が出来たとしても、それは「私」という言葉の「一解釈」でしかなく、もしかするとAはAでも、「別の人格のA」かもしれない。つまり、「Aは二重人格なのかもしれない」という解釈が、「私」という代名詞の登場一つで可能になってしまうのだ。そのような言語に縛られて、画一的な作品など作ることは不可能であろう。ちなみにそれは、「文学」以外の創作物全てに当てはまる事だと思う。そしてこういった文章解釈を行う事によって、その読者になにがしかの感動(それはその作品のユニークな解釈であったり、読者の悩みの解決法であったり)を得ようとするのが「読者の文学者」であり、なにがしかの感動(前述したような事)を作ろうとするのが「作者の文学者」であろう。
 ちなみに付け加えて「純文学」というものの意味を考えるなら、以上のような文章解釈をもっと複雑に、そしてより深い感動を、より多く詰め込もうと「作者の文学者」によって作られたものが、「純文学作品」であると思う。だがこれは「純文学作品」であって、「純文学」の意味ではない。「純文学」とは、「読者の文学者」が行うものであると思う。つまり、たとえ世に言う「純文学作品」である森鴎外の『舞姫』を誰かが読んだとき、その誰かが何も考えずに『舞姫』を読み終え、太田豊太郎は凄い馬鹿なんだなあ、としか思わなかったならば、そこに「純文学」はないことになる。その読者は、ただの「読者」として『舞姫』を読み終えてしまったのだ。

 以上が私の「文学論」であるが、書き終えてみて改めて思うのだが、これぐらいのことは皆解っているような気がしてならない。この文章の公開が、私の恥さらしという結果になってしまうのではないかと不安に思う。
 しかし、最後になったが――最後の言葉がこれでは言い訳がましいが――、「文学」という言葉自体が「文章」なのである。それ故に、その解釈法は十人十色と言っても良いのではないだろうか。


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