第二章――人間存在における形而上学(分類と確立)
 目次 前書き 第一章 第二章 第三章 第四章
 まずは結論を提示させていただこう。人間には、大きく分けて三つのタイプが存在し、それは『宗教家(Religionist)』『哲学者(Philosopher)』『俗人(Vulgar)』という名辞で表す事ができるであろう。
 では手始めに、『宗教家(Religionist)』という属性を持つ人間とはどういう人間か、を説明することにしよう。
『宗教家』という言葉を聞いて、一般の方々はどんな人間を想像されるだろうか。キリスト教徒? イスラム教徒? ヒンドゥー教徒? 仏教徒? それともオウム真理教? その他多くの「云々教」という名の「宗教」がこの世には多数存在するが、一般の方々はそのような「宗教」を「信仰」している人間だけを『宗教家』だと思っておられるのだろうか。確かに、それも間違いではない。だが、その枠を更に広げる事が可能なのである。 『宗教家』の私的な定義。それを一言で、広域に亘って対応させる言葉として表すなら、『他者による自己の確立による他者の確立を目指す者』となる。きつい言葉になるが、『宗教家』とは他人任せなのである。どういう部分が他人任せなのかというと、それは思想面で、である。彼らはその思想を、他者が確立した思想に縋ることによって自己の思想的存立をはかるのである。彼らが縋る、他者が確立した思想とはすなわち、「聖書」であったり「コーラン」であったり「アヴェスター」であったり「仏典」であったりするが、そういった「教義」を遂行する事により、自我を保ち、生きることをするのである。彼らは、自分の思考によって教義を打ちたてずに、他者の思考が打ちたてた教義を遂行しているため、不甲斐無いとして『哲学者』の属性を持つ人間からはしばしば軽蔑の対象とされたりする。
 では次に『哲学者(Philosopher)』という属性を持つ人間とはどういう人間か、を説明しよう。
『宗教家』の時と同じように、一般の方々が『哲学者』と聞いてどのような人間を想像するか考えてもらいたい。形而上学という、「存在」などについて瞑想し思索する、この世に生きるうえで必要でない物事を考える人間、とでも思われているだろうか。確かに、彼らの考えている事を理解、または同じように自らそのようなことを考えてみたりしたところで、処世術を心得られるわけではない。だが、彼らは『宗教家』とは反対に『自己による他者の確立による自己の確立を目指す者』であり、積極的に考える事をする人間である。典型的な『宗教家』のように、不動の教義をただ反復遂行することによって思想的確立を為すのではなく、『哲学者』とは、自らが考え、思想を打ちたて、考え続け、以前立てた思想が間違っていると思い直したなら新たな思想へと更新する。よって彼らの思想は常に最新のものであると言って良いであろう。そして彼らは思索家であるから、考える力に長けている。その考える力は、処世術につながるのではないかと思う。哲学する事が必要だとまでは言わないが、考える事、それは大変重要であることは断言できるであろう。だが、一応記しておくが、『哲学者』と呼ばれる人の中にも時代遅れの者もいるであろうことを忘れてはならない。
 さて、『哲学者』についての説明は少々解り難いかもしれないが、まずこの辺で打ち切らせてもらって、次の『俗人(Vulgar)』の説明に移りたいと思う。
 『俗人』とは、一言で表せば、『何も確立しない者』だろうか。何かこの世界や人間について考えたりせずに、能天気に楽天的に、人生を楽しんで、または何も縋るものを持たずに苦しんで死んでいく。そういう、他の二者である『宗教家』と『哲学者』、特に『哲学者』から嘲笑される立場にある人間が『俗人』だろう。
 さて、以上三タイプの人間がこの俗世に存在するわけだが、その世界に住む人間に多いのは、『俗人』と『宗教家』であることは言わずもがなであろう。であるから、この世は腐っているのである。糞なのである。考える事をしない、愚かな人間ばかりが存在し、育てられ、政治を取り仕切る。そんな状態が続いては、世界平和など実現できようものか。
 人間は生まれながらにして『自我』と『本能』を持ち合わせている。それ故に、俗的な欲求を感じてしまうのはやむをえないであろう。しかし、『自我』もまた確かに存在する筈であり、近年それは急速に確立されてきた。そして、かなり遅いスピードではあるが、確かに『自我』による世界形成は着実になされてきたとも思う。だが、もう既に個人の『自我』は充分に確立されているはずである。特に宗教のような束縛の少ない日本のような国に生きる人間なら、簡単にそれがなせるはずである。だが、何故か民衆は愚民にしかならない。考える事をしないのだ。
 そして彼らは愚かな事に、『癒し』を求める。何か問題や悩みがあると、愚民=俗人は『癒し』を求めるのだ。それがとても愚かだということなど全然気づかず、考えもせずに。悩みが生じたならば、それを考える事によって解消することが可能な筈である。そしてそれによって人間は『まとも』になりうると私は思う。いや、人間が『まとも』になるのは、考える事によってのみなせると思うのだ。何故なら考える事こそ『自我』的行為であり、『自我』こそ人間独特の特性であるからだ。
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