Religion or Philosophy or Vulgarity----Chapter IV
第四章――結論・形而上学
 目次 前書き 第一章 第二章 第三章 第四章
 この世が腐っているのは何ゆえだろうか。
 何故人は自己の考える力を使わず、他者に頼るのであろうか。
 何故人は楽をしようとするのだろうか。
 何故人は楽をして偽善を言うのだろうか。
 何故人は馬鹿なのだろうか。
 何故この世は腐っているのだろうか。
 何故俗人が多いのだろうか。
 何故宗教家が多いのだろうか。
 何故哲学者が少ないのだろうか。

 それは仕方の無い事だとも思う。世界中の人間が賢くなったならば、世界の『普通』のレベルが引き上げられ、『賢い』と呼ばれるための努力量が多くなってしまう。そして『今の俗世』で言う『賢い』が『普通』になったならば、『賢い』ことが『普通』であって当然であるから、『賢い』だけでは『良い人』とは呼んでもらえなくなるわけである。そうなると、性格でのパートナー選びという、今の世の中で最も『賢く』『普通』の選び方とされている基準が使えなくなるのである。これは個性の崩壊という危機を孕み、それは言い換えれば『自我』の崩壊でもある。今、私達がこの文章で考えているのは、その『自我』を特性とする人間が形成する世界についてである。『自我』なくして『人間』はありえない。であるから、その『自我』を崩壊させないため、個性をより簡単に表すために、今のこの俗世という状態が出来上がっているのではないかと思う。
 そしてそれをなすには、『哲学者』という『賢い』存在の数は、少なくあるべきなのである。『哲学者』を少なくしたなら、残るは『俗人』と『宗教家』ということになるが、『俗人』とは『何もしない者』であり、馬鹿である。であるから、『宗教家』の数を、世界の相当数にしなければならなくなるのだろう。その調整による結果が、今のこの世界の状態である。
 しかし、恐らく読者は思われるだろう。そんな機械みたいに上手く調節できるものか、と。確かに、それは私も同感である。
 だが、である。読者諸氏は『レミングス』という動物をご存知だろうか? 『百匹目の猿』という話をご存知だろうか?
『レミングス』とは、ある一定数以上同種のもの、つまりレミングスの個体数が増えると、突然集団自殺を始める動物の事であり、『百匹目の猿』とは、ある猿が泥の付いた芋を洗ってから食べるという事を知ったのがきっかけで多くの猿が同じ事をするようになり、その観測数が百匹に達した時、全世界の猿が、芋を洗ってから食べるようになったという話である。
 もしかすると、我々動物には、本能に似たこういった種族別に働く、なんらかのシステムが隠されているのではないかと思われてこないだろうか。
 まるで御伽噺のような気もするが、私だってこの説を確信しているわけではない。『解ら無い』のである。
 そう、人間には、まだまだ解らないことがたくさんあるということなのであり、それを解明しようと試みること、自己を分析することこそ、進化へのセオリーなのではないかと私は思う。
 考える事、それをし、『哲学者』になる必要性を私は主張したい。それが世界の崩壊を招くかどうかということも、私たちには『解らない』のだし、それほどまでに人間が自己を解明できるとは思わない。私が主張するのは、自己を解明しようという試みをなすこと、考える事の必要性なのである。
『宗教』ではなく『哲学』を。
『俗悪』など問題外である。
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