Religion or Philosophy or Vulgarity----Chapter III
第三章――人間存在における修辞的分析
 目次 前書き 第一章 第二章 第三章 第四章
 考える事、それをしないのは『俗人』タイプの人間であり、それは多い。
 考える事、それを他人任せにするのは『宗教家』タイプの人間であり、それは多い。
 考える事、それをしているのは『哲学者』タイプの人間だけであり、それは少ない。
『俗人』――それを私は『天国の住人』と比喩する。
『宗教家』――それを私は『天国の住人を目指す者』と比喩する。
『哲学者』――それを私は『煉獄の住人』と比喩する。

『天国の住人』――そう私が俗人を比喩した理由は、お解りいただけるだろうか。それは簡単なことで、彼らは何も考えずに人生をすごしていき、その人生をまさに『天国』のようにして生きていく存在だからである。
 しかし、だからといって彼らに苦しみが無いわけではない。だが彼らの苦しみは俗的であり、それは本来、自我的思考を用いてしまえば何の問題にも悩みにもならないことで悩んでいるのであり、いわゆる馬鹿な存在でもあると言える。
『天国の住人を目指す者』――彼らは結局のところ、考える力を持ってはいないがこの世の愚かさにのみ気づき嘆いている存在であり、その分『天国』へ行きたい、『天国の住人』となって楽に生きたいという欲求を希求する存在である。
 しかし彼らは自分で思考する事を怠けてはいるものの、その他者の思想によって自己を確立しようという行為を行っているため、彼らが『天国』へ辿り着くことは不可能であろう。『天国』とは、何もしないところである。何もしなくて良いところである。そこへ行ける(そこで生きることが出来る)のは、俗人という、何も気づかず考えぬ馬鹿だけであろう。
『煉獄の住人』――彼らほど哀れな存在が他にいようか。気づいたときには自分のいる場所は煉獄だったのだ。そして彼らは、自分が煉獄の炎で我が身を焼かれている事にも気づいてしまったのである。この世が腐っているという事に気づき、何も縋る物を持たず、自己によってこの苦しみを乗り切ろうとする存在。彼らが他者に縋らないのは、それが愚かな事であるということを知っているからである。この世、つまり人間の世は、既に『自我』が確立し『自我』を持った人間によって形成されている世界である。その世界で、他者の思想に任せて生きていくことなど、不可能なのである。

 要は世界観の違いである。
 この世界をどういうものとして捉えるか。それによって、この世界は『天国』にも『煉獄』にもなりうる。中には、宗教家として、この世界を次に来る真なる世界のようなものへ行くための分岐点と見なすこともあるようである。
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